マンフレード3世 (サルッツォ侯)とは? わかりやすく解説

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マンフレード3世 (サルッツォ侯)

(Manfred III of Saluzzo から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/01 14:35 UTC 版)

マンフレード3世
Manfredo III
サルッツォ侯
在位 1215年 - 1244年

出生 1204/6年
死去 1244年
配偶者 ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
子女 アラージア
トンマーゾ1世
アニェーゼ
マルゲリータ
家名 デル・ヴァスト家
父親 ボニファーチョ・ディ・サルッツォ
母親 マリア・ディ・トッレス
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マンフレード3世イタリア語:Manfredo III, 1204/6年 - 1244年)は、サルッツォ侯(在位:1215年 - 1244年)。

生涯

サルッツォ侯マンフレード2世の息子ボニファーチョ・ディ・サルッツォとマリア・ディ・トッレスの息子。父ボニファーチョは1212年に死去し、1215年にマンフレード3世は祖父マンフレード2世の死によりサルッツォ侯位を継承した。父方の祖母アラージア・デル・モンフェッラートが万フレートが幼少の間、1218年まで摂政をつとめた[1]。この間に、祖母アラージアはサヴォイア伯トンマーゾ1世に敬意を表した[2]

マンフレード3世は父と同様に、サヴォイア伯トンマーゾ1世の領土拡大政策に抵抗し、侯領の国境を守ることに気を配った。マンフレード3世は1244年に死去し、息子トンマーゾ1世が継承した。

結婚と子女

マンフレード3世は1233年3月にサヴォイア伯アメデーオ4世の娘ベアトリーチェと結婚し[3]、以下の子女が生まれた。

  • アラージア(1236年頃 - 1311年7月12日以前) - ポンテフラクト男爵エドマンド・ド・レイシー英語版と結婚、リンカーン伯ヘンリー・ド・レイシーの母。
  • トンマーゾ1世(1239年 - 1256年)[3] - サルッツォ侯
  • アニェーゼ(1245年 - 1265年8月4日以前) - マンフレード3世の死後に生まれる。ジョン・ド・ヴェシー英語版と結婚。
  • マルゲリータ(1245年生) - アニェーゼと双子、マンフレード3世の死後に生まれる。

脚注

  1. ^ Previté-Orton 1912, p. 387.
  2. ^ Previté-Orton 1912, p. 389.
  3. ^ a b Chaubet 1984, p. 125.

参考文献

  • Chaubet, Daniel (1984). “Une enquête historique en Savoie au XVe siècle” (French). Journal des savants n°1-2: 93–125. doi:10.3406/jds.1984.1477. 
  • Previté-Orton, C. W. (1912). The Early History of the House of Savoy: 1000-1233. Cambridge University Press 
先代
マンフレード2世
サルッツォ侯
1215年 - 1244年
次代
トンマーゾ1世



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