チャールズ・ミンガスとは? わかりやすく解説

チャールズ・ミンガス

(Charlie Mingus から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/12 13:53 UTC 版)

チャールズ・ミンガス
Charles Mingus
チャールズ・ミンガス(1976年)
基本情報
生誕 1922年4月22日
アメリカ合衆国 アリゾナ州
死没 (1979-01-05) 1979年1月5日(56歳没)
メキシコ
ジャンル ジャズハード・バップフリー・ジャズアヴァンギャルド・ジャズ
職業 ベーシストバンドリーダー作曲家
担当楽器 ベースピアノ
活動期間 1943年 - 1979年
レーベル デビュー・レコード
アトランティック・レコード
コロムビア・レコード
インパルス!レコード
公式サイト mingusmingusmingus.com

チャールズ・ミンガスCharles Mingus1922年4月22日 - 1979年1月5日)は、アメリカ合衆国ジャズ演奏家(ベーシスト作曲家バンドリーダー、時にピアニスト)。

マイルス・デイヴィスソニー・ロリンズセロニアス・モンクらと並ぶ、50年代が生んだジャズの巨人(Jazz Giant)であり、奇人としても有名。[1]

略歴

ベース奏者になるまで

1922年4月22日、アリゾナ州にて出生後、嬰児の時分にカリフォルニア州ロサンジェルス市ワッツに移住した。[1]

6歳の時(1928年頃)からトロンボーンを、10歳の時(1932年頃)にチェロを習ったが、教える人の腕がよくなかったらしく、習得に至らぬまま、高校入学後(30年代後半以降)、同級生のバディ・コレットBuddy Colletteの忠告を受けてベースに切り替えた。その際、コレットから先生として紹介されたのが、名手レッド・カレンダーRed Callenderであった。[1]

同時期に生涯を左右する音楽体験を二つしたと言われる。一つはホリネス・チャーチゴスペル、もう一つはデューク・エリントン楽団である。そして、ミンガスのベースの演奏形式を決定づけたのは、エリントン楽団の天才ジミー・ブラントンであった。[1]

音楽家としての活動

ルイ・アームストロング(1941-1943年)、キッド・オリー、アルヴィノ・レイAlvino Reyの諸楽団を経て、ライオネル・ハンプトン楽団(1946-1948年)に加入したとされるが、ディキシー・バンド時代の録音は見つかっていない。[2]

会社設立

1950-51年の間にレッド・ノーヴォRed Norvoトリオで活動したが、ひと仕事を終えるとニューヨークに移住し、郵便局員に鞍替えした。しかし、チャーリー・パーカーの説得を聴き容れて楽界に復帰し、1952年には自身の会社デビュー・レコーズを設立した(マックス・ローチとの共同設立)。当時の妻シリアが営業面の一切をとりしきり、三年ほど存続したものの、営業不審で閉鎖し、原盤はファンタジー・レコーズFantasy Recordsが保有している。[2]

このレーベルの音源としては、チャーリー・パーカー(契約上の問題でチャーリー・チャンと表記された)やディジー・ガレスピーと共演した『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』が有名だが、ベースの音量が小さかったため、ミンガスがベースをオーバー・ダビングしたというエピソードがある。

ミンガスが自身のレコード会社を設立した理由は、当時ミンガス自身が試行錯誤していたジャズ・ワークショップのコンサートをシリーズとして録音しておきたかった為とされる。この催しはのちにコンポーザーズ・ワークショップと命名され、常連にはミンガスの外、テディ・チャーズルTeddy Charlesvb)、ジョン・ラポータJohn LaPortaascl)、テオ・マセロts)、ジャズ批評家ビル・コスの名が挙がる。この時代のミンガスは大きく近代音楽に傾斜していたとされる。同時代のミンガスの音楽性は肌の色の黒さを感じさせない、つまり、黒人意識が希薄であったとも言える。[3]

黒人音楽としてのジャズ

1956年、アトランティック・レコーズから『直立猿人』が発表(同年1月30日録音)された。抒情的で劇的、強烈な音をもつこのアルバムは、所謂ウェストコースト・ジャズ、すなわち西海岸の白人ジャズの絶頂期に現れた、黒人ジャズの傑作と言われる。[4]

この1956年は、ソニー・ロリンズが『サキソフォン・コロッサス』を発表し、マイルズ・デイヴィス・クインテットが活躍するなど、それまでイーストコースト(東海岸)で燻り続けていた黒人がジャズの主導権を白人の手から奪還する契機となった年であった。奪還した主導権を手放すまいと心に誓った黒人のジャズ演奏家は、白人のジャズ演奏家には真似できない、黒人らしさを強調したジャズを意識的に演奏するようになった。肌の黒さを感じさせなかったミンガスの音楽に黒人としての意識が現れるのもこの頃からである。[5]

1959年発表の『ミンガス・アー・アム』には、リトルロック高校事件に応じて人種差別主義者の白人知事を皮肉った「フォーバス知事の寓話」や、後にジョニ・ミッチェルジェフ・ベックがカヴァーした「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」を収録した。

商業化反対活動

1960年、ドラム奏者マックス・ローチと謀り、興行家ジョージ・ウェインに叛旗を翻した。同氏主催のニューポート・ジャズ・フェスティバル(後のJVCジャズ・フェスティバル)と同日同時に、その会場の目と鼻の尖にあるクリフ・ウォーク・メイナー・ホテルの庭で、別のジャズ・フェスティバルを開催し、『ニューポートの反逆者たちNewport Rebels』というアルバムが発表された。さらに同年秋にはジャズ・アーティスト・ギルドJazz Artists Guildが発足されたが、経営手腕のないミンガス主導のもと、すぐに雲散霧消に帰した。[6]

1961年5月、カーネギー・ホールニューヨーク市)で催されたマイルス・デイヴィスギル・エヴァンスのコンサート会場に、マックス・ローチ以下数人のミュージシャンが「Freedom Now」と書かれたプラカードをおし立てて、ステージを占領する騒ぎが起こった。それを新聞で読んだミンガスは、ニタリと笑って「(私が)マックスに言ったんだ。有名になりたかったら、アホなことをやりなって」と言ったという。[7]

1962年にはタウン・ホールでコンサートを開いたが、その際にジャズ・マンのフェス・ウィリアムズに対して、共演するよう誘ったという[8]。同年発表の『オー・ヤー』では、ベースを弾かずにボーカルとピアノを担当し、新たな一面を見せた[9]。その後、ミンガス自身によるピアノ・ソロ作品『ミンガス・プレイズ・ピアノ』も発表。ミンガスのバンドには、ジョン・ハンディエリック・ドルフィーローランド・カーク等のプレイヤーが出はいりしてきた。1962年には、穐吉敏子も一時的に在籍した。

晩年

1960年代後半は活動が停滞するが、1970年代に入ると再び活動が活発化した。シンガーソングライターのジョニ・ミッチェル[10]は、ジャコ・パストリアス等のメンバーを従え、ミンガスに捧げるアルバム『ミンガス』を制作。ミンガス本人もレコーディングに立ち会ったが、アルバム完成前に亡くなり、1979年7月、ミンガスへの追悼盤という形で発表された。

晩年は、筋萎縮性側索硬化症で車椅子生活となり、ベースを弾けなくなったが、作曲・編曲活動は死の直前まで続けていた。

音楽の特徴

  • 1952年のデビュー・レコーズ設立の目的であったコンポーザーズ・ワークショップのコンサートでは、演奏する曲目をすべて譜面化していたとされる。しかしこの譜面化については、大量の音符で精確に記録したところで、心に描いた作品は決してその音符どおりには演奏されないとして、後にミンガス自身が痛烈に自己批判し、またこの経験を通じて、四分の四拍子ひとつに表現方法が沢山存在することに気づかされたと話したという。[3]
  • ジャズ評論家油井正一は1970年、ベルリンおよびロンドンでのべ三回に亘りミンガスのバンド演奏に参観した。同氏に拠れば、ミンガスのバンドは全員が譜面台に向かって腰かけ、譜面台と頸っ引きになり、楽譜から目を離さずに演奏したという。同氏は、ミンガス代表作『直立猿人』(1956年発表)の録音も、あるいは同様の形態で行われたのではないかと推測している。[11]
  • ミンガスの音楽の多くはハード・バップの感触を持ち、ゴスペルの大きな影響を受けていた。時に、サード・ストリームフリー・ジャズスペイン音楽の要素を取り入れることもあった。
  • 音楽表現によって編成も大きく変わり、ピアノソロから大所帯のアンサンブルまで、そのスタイルは多岐に及ぶ。
  • デューク・エリントンを敬愛していた。デュークが1962年に制作した『マネー・ジャングル』に、マックス・ローチと共に参加した。自分のリーダー・アルバムでも、「ムード・インディゴ」「Cジャム・ブルース」といったデュークの曲を取り上げている。

ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第2位に選ばれている[12]

逸話

  • 「俺をチャーリーとよぶな。チャールズとよべ」といったことがある。[1]
  • やることなすこと長続きせず、挫折しがちであったのを、ジャズ界に巣食うギャングのしわざであると結論づけていた。国連ジャズ・クラブの討論会に出席した際には、ジャズ批評家マーティン・ウィリアムズMartin Williamsに噛みつき、とりあわないウィリアムズに対して「おい、何とか言ったらどうだ!」と詰め寄った。[7]
  • 鬱病、もしくは双極性障害の傾向にあった。
  • 葉巻チェスの愛好家であった。サックス奏者のポール・デスモンドも、ミンガスとチェスの対戦を楽しんだという。
  • 黒人に対する人種差別には激しく抵抗していたが、有能なミュージシャンであれば白人でも迎え入れた。とりわけ、ジミー・ネッパートロンボーン)はお気に入りだったという。また、最初の妻・2人目の妻ともに白人だった。

ディスコグラフィ

リーダー・アルバム

ミンガス・ビッグ・バンドによる没後アルバム

いずれのミンガス・ビッグ・バンド作品においてもチャールズ・ミンガス自身は演奏していない。

  • 『サムシング・ライク・ア・バード』 - Something Like A Bird (1979年、Atlantic)
  • 『ミー、マイセルフ・アン・アイ』 - Me, Myself An Eye (1979年、Atlantic)
  • 『エピタフ』 - Epitaph (1990年、Columbia)
  • 『ミステリアス・ブルース』 - Mysterious Blues (1990年、CANDID)

その他のアルバム

映画音楽

参考文献

脚注

  1. 1 2 3 4 5 ジャズの歴史物語. p. 399
  2. 1 2 ジャズの歴史物語. p. 400
  3. 1 2 ジャズの歴史物語. pp. 401-402
  4. ジャズの歴史物語. p. 402
  5. ジャズの歴史物語. p. 404
  6. ジャズの歴史物語. pp. 406-407
  7. 1 2 ジャズの歴史物語. p. 407
  8. Town Hall Train Wreck Village Voice ”. 2020年7月1日閲覧。
  9. Huey, Steve. Oh Yeah - Charles Mingus”. AllMusic. 2022年4月27日閲覧。
  10. ジョニは、プライベートでもミンガスと交際したとも伝えられた
  11. ジャズの歴史物語. pp. 397-398,402
  12. The 50 Greatest Bassists of All Time (英語). rollingstone.com (2020年7月1日). 2021年12月27日閲覧。
  13. 巻末「本書は、1972年にスイング・ジャーナル社より刊行された『ジャズの歴史物語』を文庫化したものです。」

関連項目

外部リンク





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