蒋鎮とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 蒋鎮の意味・解説 

蔣鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/17 09:20 UTC 版)

蔣 鎮(しょう ちん、生年不詳 - 784年)は、唐代官僚本貫常州義興県[1]

経歴

尚書左丞の蔣洌の子として生まれた。兄の蔣錬とともに文学により進められた。天宝末年、賢良方正科に挙げられた。左拾遺・司封員外郎を歴任し、諫議大夫に転じた。大暦年間、大雨のため解県の塩池が壊れ、塩の味は苦みが多くなった。戸部侍郎の韓滉は塩の税収が減るのを心配して、偽って塩池から瑞塩が生じたと上奏した。代宗はこれを疑って、蔣鎮に命じて調べさせた。蔣鎮は韓滉と同じ報告をし、塩池に神祠を置き、宝応霊慶池と名づけるよう上表した。蔣鎮は給事中工部侍郎に転じ、簡素な仕事ぶりで知られた[1][2]

蔣鎮の妹婿の源溥は源休の弟であり、姻戚であったことから、蔣鎮は源休と仲が良かった。建中4年(783年)、涇原の兵が反乱を起こすと、蔣鎮は逃亡して、夜に鄠県の西にいたり、馬がつまづいて谷間の溝に落ち、足を傷つけて進めなくなってしまった。ときに蔣錬は源休とともに朱泚の官を受けていた。蔣鎮の僕人は蔣錬のところに逃げこむと、蔣鎮が足を怪我していると知らせた。蔣錬と源休が朱泚に報告すると、朱泚は騎兵200を鄠県の西に派遣して蔣鎮を迎えさせた。蔣鎮が到着すると、宰相に任じられた。蔣鎮は逃げられないと知ると、懐剣で自殺しようとしたが、蔣錬に止められた。源休と朱泚が相談して、隠れ潜んでいる官僚たちを殺戮しようとしたが、蔣鎮は極力救おうとし、命を全うした者も多かった。興元元年(784年)、朱泚が敗れると、蔣鎮は官軍に捕らえられ、長安東市の西北の街で斬られた[3][2]

脚注

  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3578.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 6391.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3578–3579.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  蒋鎮のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

蒋鎮のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蒋鎮のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの蔣鎮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS