徐州大虐殺
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徐州大虐殺(じょしゅうだいぎゃくさつ)とは、三国志において曹操が193年・194年に徐州で行った大虐殺事件である。
一般市民も含めた数十万人を虐殺した事件であり、曹操の生涯で最大の汚点となり、後世に「奸雄」として悪名を広める一因にもなった事件である。
概要
『三国志 武帝紀(曹操伝)』によると「太祖(曹操)は復讐を志して東征した」と記されており、曹操は陶謙またはその配下に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺害されており、その恨みを晴らすべく、193年・194年に徐州に二回の侵攻を行った[1]。陶謙から十数城を奪い、至る所で殺戮を行い、一般市民も含めた数十万人を殺し、鶏や犬すらいなくなったという。
曹操は193年に徐州の陶謙を攻め、数十万人を虐殺した[1]。
正史『三国志』では、曹操の徐州攻めは「通過した地域で多数の者を虐殺した」「陶謙の軍は敗走し、死者は万単位にのぼり、泗水(しすい)はこのために流れが止められた」と、相当な数の犠牲者が出た事が記されている。
また『後漢書』には「曹操は数十万人の男女を殺し、その軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声も聞こえず、死体で泗水の流れが堰き止められたほどであった」と記されている。
翌194年にも再び徐州を攻め、前年同様に多くの民衆を殺害した[1]。
曹操は十余城を攻め落とすも、陶謙が籠もる本拠地は攻略できなく、その過程で虐殺を行った[1]。
事件後
曹操は徐州攻略後、陶謙の一族は処刑しなかった。
脚注
- ^ a b c d “『三国志演義』ファンが知らない「曹操」の意外な“真実””. ダイヤモンド・オンライン (2024年2月3日). 2025年9月2日閲覧。
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