古賀玄三郎
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古賀玄三郎(こが-げんざぶろう、1879-1920)明治-大正時代の医師。明治12年10月30日生まれ。 佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。1920年10月21日急死。42歳。 京都帝国大学 医学博士
根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人 医学博士 守屋 伍造 医学博士 古賀玄三郎 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒後上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。34年岩手県盛岡病院外科部長。
大正3年北里研究所部長となり,結核の研究にあたった。満州(中国東北部)の衛生状態を視察中の大正91910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります
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