劉政_(河間王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉政_(河間王)の意味・解説 

劉政 (河間王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/26 13:30 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

劉政(りゅう せい、生年不詳 - 141年)は、後漢皇族。河間恵王。

経歴

河間孝王劉開の子として生まれた。131年永建6年)、劉開が死去すると、劉政が河間王の封を嗣いだ。劉政は傲慢はなはだしく、法やきまりを守ろうとしなかった。順帝は侍御史の沈景が能力の高いことで知られていたことから、抜擢して河間国の相とした。

沈景が河間国に赴任すると、劉政は服を正さず、殿上で両足を前へ投げ出して座っていた。侍郎が拝礼の呼びかけをしたが、沈景は立ったまま拝礼しなかった。沈景が王の所在を問うと、虎賁は「これが王ではないか」と答えた。沈景は「王が正装の服を着ないで、常人と何を区別するのか。いま相が王に拝謁するのに、どうして礼無くして謁することがあろうか」と一喝した。劉政は恥じ入って服を替え、沈景はその後に拝礼した。沈景は宮門の外に住み、王を訓導しなかった傅を責めて、その罪を上奏した。順帝は劉政を責め、傅を厳しく問いつめる詔書を下した。沈景は姦人たちを逮捕してその罪を上申し、最も凶悪な数十人を処刑し、冤罪で獄にあった100人あまりを釈放した。劉政は態度を改め、前過を悔いて自ら修養するようになった。

132年陽嘉元年)、劉政の弟13人が亭侯に封じられた。141年永和6年)3月乙巳、劉政は死去した。子の河間貞王劉建が後を嗣いだ。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉政_(河間王)」の関連用語

劉政_(河間王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉政_(河間王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉政 (河間王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS