佐々木岳久
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佐々木 岳久
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佐々木岳久
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生誕 | 1972年5月20日(53歳)![]() |
職業 | 美術家、クリエイティブ・ディレクター、プロデューサー、プランナー、コピーライター |
佐々木岳久(ささき たけひさ、1972年5月20日 - )は、日本の現代美術家、およびクリエイティブ・ディレクター、プロデューサー、プランナー、コピーライター。[1]宮城県石巻市出身、埼玉県在住。絵画やオブジェを中心に制作し、銀塩銅腐蝕プリントという独自の新技法を用いた表現を特徴としている。
人物と芸術哲学
佐々木岳久の芸術活動の根底には、西洋哲学、歴史、神話、文学、そして精神世界に対する飽くなき探求心がある。彼はこれら広範なテーマを単なる知識として吸収するだけでなく、自らの内に取り込み、過去に蓄積された記憶の総体から、現在の直感や五感を通じて立ち現れるイメージを無意識的に選択し、それを新たな創造の衝動として昇華させている。このプロセスは、作品が佐々木の内面と深く結びつき、絶え間なく流動する時間の中で独自の視点と表現を生み出すための不可欠な要素となっている。
佐々木が特に自身の個展の主要なテーマとして深く掘り下げるのは、以下の哲学者、思想、文学作品などである。彼はこれらに関する書物や文献を徹底的に読み込み、その知識を自身の発想力と創造力をもって作品へと昇華させている。これらの主題は、佐々木という美術家自身の本質的な性格と深く結びついていると語られており、その作品は深遠な知的探求の結晶として、鑑賞者に対し多層的な思考と感覚の体験を促す。
- ジョルダーノ・ブルーノ(1548年 - 1600年2月17日): 16世紀イタリアの哲学者、魔術師、天文学者。彼の提唱した無限宇宙論や既存の教義に反する異端思想、あるいは特異な記憶術の実践、そして人間の本質に内在する狂気や普遍的な特性としてのロバ性といった概念は、佐々木が作品において広大な宇宙の神秘、人間の精神の自由、そして限りない可能性を探求するための核となるテーマを形成している。ブルーノの思想が佐々木の創造性に与える影響は計り知れない。
- ヘルメス文書(ヘルメス・トリスメギストス): 古代エジプトの智恵を伝える神秘思想群であり、その深遠な内容は佐々木の創作に多大な影響を与えている。魔術、錬金術、宇宙の構造や万物の根源に関する記述は、佐々木の作品における象徴性の探求や、生命や存在そのものに対する根源的な問いを表現する上で重要なインスピレーションとなっている。(作者、生没年不明)
- ナグ・ハマディ文書、グノーシス主義、古代神智学:キリスト教以前の神秘思想や、霊的知識(グノーシス)による救済を説く思想は、佐々木の作品世界に深く根ざしている。これらに見られる壮大な宇宙創生神話や、光と闇、精神と物質の対立を説く二元論は、佐々木が人間存在の根源や世界の成り立ち、そして精神的な解放を探求する上で重要なインスピレーションを提供している。
- アンリ・ベルクソン(1859年10月18日 - 1941年1月4日):フランスの哲学者。特に彼の提唱する「純粋持続」という概念、すなわち分節されず流れ続ける時間そのものの体験や、生命の根源的な衝動を意味する「エラン・ヴィタール(生命の飛躍)」といった概念は、佐々木が作品における時間感覚の表現、生命の躍動感、そして芸術的創造における直感の重要性を表現する上で深く影響を与えている。中でも、彼の主著の一つである『物質と記憶』は、心身問題や知覚のメカニズムに関する従来の哲学的な枠組みを大きく揺るがし、20世紀の哲学、心理学、そして芸術に多大な影響を与えた画期的な著作であり、佐々木の思想形成において重要な位置を占めている。
- 小林秀雄(1902年4月11日 - 1983年3月1日):日本の文芸評論家。彼の鋭い批評眼と思索の足跡、そして日本の美意識を象徴する「もののあわれ」に対する深い洞察は、佐々木の精神的な側面に深く共鳴し、作品に内省的な深みと繊細な情趣を与えている。小林の著作を通じて、佐々木は自身の内面世界をより深く掘り下げ、日本独自の美意識と普遍的な真理との融合を試みている。
- 皇帝ネロ(37年12月15日 - 68年6月9日):ローマ帝国の皇帝。歴史上の人物とその背景にある壮大な物語、特にその時代の権力と退廃、そして美意識の交錯は、佐々木の表現における人間ドラマや歴史的変遷の源泉となっている。ネロという人物像を通じて、佐々木は人間の光と影、創造と破壊といった普遍的なテーマを探求している。
- マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1871年7月10日 - 1922年11月18日):記憶、時間、そして芸術による魂の再生というテーマを探求した20世紀フランス文学の金字塔は、佐々木の作品に深い影響を与えている。この作品に描かれる無意識的な記憶の呼び覚ましや、時間そのものの流動性、そして芸術が人間にもたらす回復力や救済に対する考え方は、佐々木が自身の作品で扱う時間や記憶の概念を形成する上で大きなインスピレーションとなっている。
これらの主要テーマに加え、佐々木は社会情勢(例えば戦争、和平、政治、新型コロナウイルス、ワクチン)や宗教に関する動向にも強い関心を示している。これらの分野は専門的な知見を持つものではなく、書物やウェブサイトなどの情報を参考に自身の学びとして記録しているものだが、その探求は、個展の主題となるものをより多角的に補足する意味合いも持っていたという。一方で、佐々木は宗教の持つ害悪を認めており、特定の信仰心を持たない無宗教であることを表明しており、そのスタンスは彼の自由な思想と表現の一端をなしている。
生い立ちと芸術への道
佐々木岳久は、1972年5月20日に宮城県石巻市で生まれた。幼少期には漫画家を志し、自作の漫画を描くことに熱中したが、小学校入学の頃には画家を志すようになる。幼少期は毎日、泥だらけになって遊ぶような活発性を持つ側面もあり、性格的にも無口な方で、きかん気が強かったという。小学校は大川第二小学校(佐々木が卒業と同時に大川第一小学校と統合し、大川小学校となる。大川小学校は東日本大震災の津波の影響で廃校)を卒業。中学校は大川中学校(東日本大震災の津波の影響で廃校)を卒業。小学校時代は野球でピッチャー、中学校時代はバレーボールでエースアタッカーを務め市町村対抗一市二郡大会(当時の石巻市、桃生郡、牡鹿郡)で準優勝経験もある。または友達との遊びを断って長距離走に日々熱中するなど、スポーツにも熱中し、情熱的で高い集中力を見せる一面があった。本格的な美術の勉強を始めるのは遅く、中学校3年生の時の課外授業で油絵に初めて触れたのがきっかけであり、その時、描いたのは静物画である。
1988年、宮城県石巻高等学校に入学。美術部でデッサンの基礎を本格的に学び始めるが、そもそも美術部が帰宅部であったこと、そして、近隣に美術大学の進学予備校がなかったため、誰にも教わる機会がなく、夏季休暇や冬季休暇には東京の美術系予備校(新宿美術学院)の講習会に参加する。この時期、周囲のレベルに圧倒されたことから、受験まで時間がないという焦りのあまり、高校時代はあえて特定の友人を作らず、自分の殻に閉じこもってデッサンに集中していたという。高校時代はクラシック音楽にも熱中し、画家としてはエル・グレコ(1541年 - 1614年4月7日)に傾倒していた。
1991年、宮城県石巻高等学校を卒業。現役時代の第一志望は武蔵野美術大学であったが、受験に失敗し、浪人して再度受験するため上京。都内の美術系予備校(新宿美術学院)に通う中で極度のスランプに陥ったが、受験前日に突如として覚醒し、描けるようになる経験をした。この浪人時代に第一志望は多摩美術大学へと変わり、一浪の末、東京造形大学と多摩美術大学に合格を果たす。なお、受験生の誰もが憧れる東京藝術大学は、佐々木が敬遠したため一度も受験していない。
1992年、多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。受験時の実技は、受験生トップ(満点の評価)を得るも、入学後は極度に低迷した。この時期、自身の表現の模索に苦悩し、様々なアーティストの模倣(抽象画、具象画、立体作品を含む)を試みるも、なかなか自己表現を確立できずにいた。
シャイム・スーティン(1893年9月2日 - 1943年8月9日)やウィレム・デ・クーニング(1904年4月24日 - 1997年3月19日)のように心の中の感情を激しくキャンバスにぶつけるような表現を試みたこともあったが、「あなたは感情を廃して描くタイプ」と評されたことから、風景のスケッチをするなど現実的な観察を基にする表現を模索した。この期間、多摩美術大学周辺の多摩ニュータウン開発地を巡り風景を描いていた。しかし、内心は常に確信が持てず不安定な状況が続いたため、常に苦痛を伴っていた。そのため、生活も昼夜逆転することが多かったという。ストレスから心因性視覚障害を患い、色を全く識別できなくなることもあった。これは現在においても起きることで、特にクロード・モネ(1840年11月14日 - 1926年12月5日)の絵画はどれだけ色彩豊かに描かれていたとしても、グレーにしか見えないという。大学では教職免許も取得しなかったが、これは教育実習に行くのが嫌だったためという。結局、卒業まで確信の持てる表現が見つからず、大学院に進む意欲も持てなかったため、大学卒業で学業を終える。卒業制作も満足のいく出来栄えではなく、大学時代に制作した作品は燃やしてしまい殆ど残っていない。大学では周囲の人間は個性的な人達が多かった反面、彼らが就職先をきちんと見つけてから卒業していったことを、佐々木はぼんやりした気持ちで眺めていたという。これは、佐々木があくまでも絵で生活していくという強い思いから、就職先を探すことを考えていなかったためである。佐々木は、後に周囲の人間よりも自分自身の方がよほど変わり者であったことを自覚したという。
1996年、多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。卒業後は何一つ作品が生み出せず、また就職氷河期の影響で正社員に恵まれず、アルバイトをしながら悶々とした日々を送った。アルバイトはウェイター、トラック運転手、ゲーム制作会社、リフォーム会社などを転々とし、休日は古着屋巡りや本屋巡りをして過ごすことが多かったという。しかし、アルバイトで生活をつないでいくことに限界を感じたため、正社員の仕事を探すようになる。その後、正社員として工業系の会社に就職するも、業務中に頚椎ヘルニアを患い休業を余儀なくされる。この休業期間中にテレビで観た大竹伸朗(1955年10月8日 - )の言葉に触発され、再び創作意欲に駆られる。アイデアノートの作成やコラージュなどを始めるようになり、その過程を経て生み出された作品が「日仏現代作家展」において大賞を受賞する。この受賞と頚椎ヘルニアからの回復を機に、佐々木は生活の糧としてデザイナーとしてのキャリアを積むこととなる。
現在の活動
佐々木岳久は、美術家としての活動と並行して、クリエイティブ・ディレクター、プロデューサー、プランナー、コピーライターとしても多岐にわたる活躍を見せている。
かつてはギャラリーの所属作家として活動していた時期もあったが、ギャラリーによる作品の取り扱いでの破損や、約束を反故にされた経験があったことから、佐々木は信頼関係を保てないと判断し、自ら所属を解消した。これにより、アートマーケットへの商業的な展開は絶たれたものの、自身の活動における透明性を守るための決断であり、この選択は間違いではなかったと語っている。
西洋哲学、歴史、神話、文学、そして精神世界といった深いテーマを追求する佐々木の芸術活動と、実社会におけるクリエイティブな専門性を両立させている点が、佐々木の特筆すべき点である。
基本的には明るい性格であるが本質的には内向的であるため、休日は自宅にこもっている。特に友人もつくらず一人で静かに自分の世界に没頭することが多く、人生の後半を豊かに生きるためには、孤独を最高の贅沢と考えている側面もある。それは他人と自分を比べないということが、自己を確立する上での本当の意味での強さであると信じているからで、自分だけの時間の中で自分の心と対話し、自分だけの価値基準(穏やかで、しなやかで、揺るぎない自分でいること)を育てることの大切さを感じているからだという。
また、佐々木は自身に芸術の道がなかったらどんな道を歩んだかとの問いに対し、国防の任務に就きたかったと語る。出身地の石巻市でブルーインパルスの訓練飛行を幼少期から目にし、航空自衛隊への強い憧れを抱いていたことがその背景にある。 一方で、佐々木は過去に困難から鬱病を患った経験を持つ。病状が重く、薬の副作用でわずか100メートルの距離を歩くのに30分を要するほどの苦しみを味わい、リハビリのため一時的にデザイナー職を離れることを余儀なくされた。この期間、佐川急便の配送センターで荷物の仕分け業務に従事していた折に東日本大震災が発生する。帰省ルートが寸断される中、夜間の業務に加え、昼間は家族や親戚の連絡の中心的な役割を担い、約3ヶ月間、1日あたり2時間程度の睡眠で過ごすという極限的な状況を経験した。この壮絶な体験を通じて、佐々木は防衛省、海上保安庁、消防庁、警察といった公的機関への深い恩義を感じ続けている。こうした経験と想いが、後にデザイナー、クリエイティブ・ディレクターとして、防衛省のキャリア幹部募集に関する業務に携わるきっかけにもなった。
評価と作品の特色
佐々木岳久の作品は、その独創性と精神性が国内外の展示会で高く評価されている。彼の作品について、以下のような評価が寄せられている。
- 飯田善國(彫刻家、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、佐々木の作品が「心のうちにひそむ光と闇の、ひたむきなデッサン」であり、「どこか愁いが大きい」と評し、その作品が「魂に深く沈潜した」ものであると述べている。この評価は、佐々木が単なる表面的な描写に留まらず、人間の内面に潜む複雑な感情や、光と影が織りなす精神的な機微を深く掘り下げ、それを誠実なデッサンとして視覚的に表現する能力に長けていることを示唆している。彼の作品が鑑賞者の魂に深く訴えかけるのは、このような内省的かつ繊細なアプローチに起因すると考えられる。
- 宗左近(詩人・評論家・仏文学者、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、佐々木の作品が「純粋な一滴の万華鏡世界」であり、「哲学に裏打ちされたもの」であると高く評価している。さらに、「感覚的なものと、思念的なものとがそっくりそのまま響き合う」とも評しており、佐々木が直感的な感性によって捉えられたイメージと、深い哲学的な思考によって構築された概念とを見事に融合させることに成功している点を指摘している。彼の作品は、知的な探求と美的な感動が一体となった、多層的な体験を鑑賞者に提供する。
- 前島隆(美術評論家)は、佐々木の作品を「イメージの具現化に様々な新しい技術を駆使し、密度を高く保っている」と述べ、その緻密な制作技術と構成力を高く評価している。単に新しい技術を導入するだけでなく、それを作品のイメージを具現化するために効果的に用い、作品全体の密度と質を高めている点が特筆される。また、「表現が幅広く、豊かになっている」とし、佐々木の作品が単一の様式に留まらず、多様な表現力と深い精神性、そして技術的な洗練を兼ね備えていることを強調している。
- 佐々木の観察眼は、ジャン・シメオン・シャルダン(1699年11月2日 - 1779年12月6日)のような、光に反応するタイプであると評されている。これは、彼の作品における光と影の繊細な表現、そして現実世界から得られるインスピレーションを独自の視点で捉え、作品へと昇華させる彼の能力に深く関わっている。 これらの評価は、佐々木の作品が単なる視覚的魅力に留まらず、深い精神性、哲学的な思索、高度な技術、そして独自の観察眼に裏打ちされた、多角的で豊かな芸術であることを明確に示している。
好きな美術家
佐々木岳久が特に影響を受けた、あるいは敬愛するアーティストとして、以下の人物を挙げている。
- ホルスト・ヤンセン(1929年11月14日 - 1995年8月31日)
- フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年3月30日 - 1890年7月29日)
- 大竹伸朗(1955年10月8日 - )
- アントニ・タピエス(1923年12月13日 - 2012年2月6日)
特にホルスト・ヤンセンの作品は複数所蔵し、ゴッホに関しては人間的に尊敬に値する人物と評し『ゴッホの手紙』は必読の書としている。
作品
佐々木岳久の作品は、意味を持たせない独特のタイトル形式で管理されている。作品名自体は「TS」という佐々木のイニシャルが用いられ、作品そのものの本質に焦点を当てる佐々木が姿勢を表れている。
作品のタイトル判別方法は、『TS-AABBCCDD』の形式をとる。
AA: その日(BB)に完成した作品で何番目に該当するかを示す番号。
BB: 日付。
CC: 月。
DD: 西暦の下二桁。
(例:『TS-01150725』であれば、2025年7月15日に完成した作品の1番目を意味する。)
展示会
国内外で精力的に作品を発表しており、個展も多数開催している。
(主な参加・受賞歴)
- 現代美術小品展(佳作受賞)
- 第3回 日仏現代作家展(大賞受賞)
- フィナール国際美術展
- サロン・ド・フィナール・パリ展
- サロン・ド・フィナール東京・大阪展
- 第1回 日仏アートサロン
- ふるさと美術展
- 河北美術展
- Young Art Taipei 2013(台湾)
- BANK ART FAIR 2013(香港)
- 朝日A展
- Print-making
- その他 個展多数。
外部リンク
- ^ “佐々木岳久 公式ホームページ”. TS-WORKS公式サイト. 2025年7月21日閲覧。
固有名詞の分類
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