伊藤美代子 (実業家)とは? わかりやすく解説

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伊藤美代子 (実業家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/05 09:26 UTC 版)

いとう みよこ
伊藤 美代子
生誕 (1925-05-23) 1925年5月23日
死没 (2011-08-21) 2011年8月21日(86歳没)
国籍 日本
出身校名古屋第二女子商業本科[1]

伊藤 美代子(いとう みよこ、1925年(大正14年)5月23日[1] - 2011年(平成23年)8月21日[2])は、あかのれんの3代目社長。

人物

1925年(大正14年)、名古屋市に生まれる[3]。家は父藤三郎が1919年(大正8年)に「あかのれん呉服店」として創業した衣料品店であった[3]

私立名古屋第二女子商業学校3年生のとき、跡継ぎとして期待されていた兄が病死[3]。気落ちした両親に呉服店の営業の全てを押しつけられた[3]。美代子は学校から帰ると、すぐに着物に着替え、店頭に立った[3]。妹と二人、中区上前津にある組合までリアカーを引っ張り商品を受け取りにも行った[4]。1942年(昭和17年)に名古屋第二女子商業本科を卒業[1]

そうして苦労して営業を続けた「あかのれん呉服店」も家財もろとも名古屋大空襲により灰燼に帰した[4]

戦後、内田橋バラック建ての古着屋として事業を再開[4]。1947年(昭和22年)、いとこであった英明と結婚し、二代目社長に据えた[4]。英明はラシャ問屋での勤務経験のあと、8年間兵役に就いており、何事にも妥協しなかったという[5]

夜となく昼となく働き続ける中、生後2ヶ月の次女を急性肺炎で亡くす[4]。さらに、伊勢湾台風に被災。泥をかぶった商品をクリーニングして、廉売したところ、被災者たちに飛ぶように売れた[6]

1975年(昭和50年)、英明が病に倒れ、4年後亡くなってしまう[6]。このとき、美代子があかのれんの3代目社長となった[6]

1987年(昭和62年)、名古屋商工会議所婦人会に入会[3]。翌年、中部経済同友会入会[3]

1989年(平成元年)、会長に退く[3]。「買う身になっての店づくり」を信念に毎月全店舗の店頭に赴いていたという[1]

2011年(平成23年)8月21日死去[2]。86歳だった[2]

脚注

参考文献

  • 中部経済新聞社 編 『淑女録 行動する中部の女性群像 Stage1』中部経済新聞社、1998年。ISBN 4-88520-002-4 
  • 中日出版本社 編「伊藤美代子」 『愛知県著名女性事典』中日出版本社、1994年11月20日。ISBN 4-88519-101-7 
  • 北見昌朗 『愛知千年企業 大正時代編』北見昌朗、2016年2月12日。ISBN 978-4-8062-0701-6 
  • 青柳清子「伊藤美代子」 『愛知近現代女性史人名事典Ⅱ』愛知女性史研究会、2020年12月15日。ISBN 978-4-903036-38-0 



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