ヨーガナレーンドラ・マッラとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヨーガナレーンドラ・マッラの意味・解説 

ヨーガナレーンドラ・マッラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 00:11 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ヨーガナレーンドラ・マッラ

ヨーガナレーンドラ・マッラ(Yoganarendra Malla、生年不詳 - 1715年)は、ネパールパタン・マッラ朝の君主(在位:1685年 - 1715年)。

生涯

ヨーガナレーンドラ・マッラ

1685年、父シュリーニヴァーサ・マッラが譲位したため、18歳のヨーガナレーンドラが即位した。

ヨーガナレーンドラの治世、友好国であったゴルカ王国プリトビパティ・シャハ1686年にカトマンズに赴き、カトマンズ王パールティヴェーンドラ・マッラ、バクタプル王ジターミトラ・マッラと談合した。このため、ヨーガナレーンドラはパタンは孤立した。

だが、カトマンズがバクタプルと不仲になると、1688年にカトマンズと同盟し、バクタプルを包囲した。だが、バクタプルを包囲して得るものが何もないと、バクタプルと組んで、1689年には共にカトマンズを攻撃した。このように、ヨーガナレーンドラは策謀の天才であり、目まぐるしく相手を変え、孤立してもそれを乗り切った。

一方、カトマンズは孤立の上政情不安も相まったため、ヨーガナレーンドラに要請し、1697年から1698年にかけてパタン、バクタプル、カトマンズとの間に三都友好条約が締結された。だが、1698年末にバクタプル王ブーパティーンドラ・マッラの王弟がバクタプルからカトマンズに逃げ、カトマンズがそれを匿ったことでこれは崩壊した。

ヨーガナレーンドラはバクタプルが弱いと見て、バクタプルの支配を試みた。だが、ブーパティーンドラは外交手腕に長けており、カトマンズ盆地外の勢力であるゴルカ王国、タナフン・セーナ王国マクワンプル・セーナ王国を味方に付け、三国の支持を背景に逆にヨーガナレーンドラに圧力をかけた。その結果、1701年にバクタプルは友好条約を強要し、パタンもこれに応じた。

だが、1705年にヨーガナレーンドラ王はカトマンズと組み、バクタプル領へと進撃した。ヨーガナレーンドラはチャングに滞在してバクタプルの攻撃を準備したが、カトマンズに離反されたバクタプルは勝ち目がないと判断し、刺客を送った。この刺客はヨーガナレーンドラの煙草に毒を仕込み、そのため王はあっけなく死んだ。

ヨーガナレーンドラの死後、パタン軍は自国に引き上げた。同時に後継者も問題が浮上したが、結局王の外孫ローカプラカーシャ・マッラが王となった。

参考文献

  • 佐伯和彦 『ネパール全史』 明石書店、2003年。 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヨーガナレーンドラ・マッラ」の関連用語

ヨーガナレーンドラ・マッラのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨーガナレーンドラ・マッラのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨーガナレーンドラ・マッラ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS