ガハイ・エレスンの戦いとは? わかりやすく解説

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ガハイ・エレスンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/17 15:32 UTC 版)

ガハイ・エレスンの戦いとは、1508年ダヤン・ハーン率いる軍団と、トゥメト部のホサイ・タブナン率いる軍団との間で行われた戦闘。ガハイ・エレスン(Γagai elesün)もしくはガハイ・エレス(Γagai elesü)は、現在の内モンゴル自治区西ウジュムチン旗境にある地と見られる[1]

一連の戦闘でダヤン・ハーン側が敗北を喫したが、後にダヤン・ハーンは捲土重来してダラン・テリグンの戦いにて勝利を収めることとなる。

背景

いわゆる北元時代の前半において、モンゴル高原では「サイト(Sayid、「異姓貴族」とも意訳される)」と総称される、チンギス・カンの血を引かない領主が大きな力を持っていた。サイトの中で最大の実力者が「太師(Tayisi)」と称してハーンを傀儡とし、事実上の最高権力者として振る舞う体制が14世紀初頭から15世紀まで続けられた。

このような社会情勢に変化をもたらしたのがマンドゥールン・ハーンで、マンドゥールンはチャハル部を率いてヨンシエブのベグ・アルスラン太師を討つことに成功した。マンドゥールン・ハーンの勢力を継承したダヤン・ハーンも異姓貴族を従えようとし、自らの息子たちを送り込んで各部を統制しようとした。

しかしこれに対し、当時の諸部族の中で「右翼」に属するトゥメトのホサイ・タブナン、オルドスのマンドライ・アカラク、ヨンシエブのイブラヒム太師(これを「右翼三トゥメン」と総称する)が反発し、ダヤン・ハーンの息子のウルス・ボラトを殺害してしまった。これを切っ掛けにダヤン・ハーン率いる左翼諸部族と「右翼三トゥメン」の武力衝突が起こり、両軍が最初に激突したのがトゥルゲン河、ガハイ・エレスンの地であった。

戦闘

『蒙古源流』によると、右翼三トゥメンの叛乱を知ったダヤン・ハーンはテムルなる将に太師の号を与え、七人の家来を大ダルハンとして、出陣したという[2]。ダヤン・ハーンの軍団がオンゴン山の峡谷に入って、トゥルゲン河のほとりで野営していた時、トゥメト部はこれを知ってダヤン・ハーンの軍団に奇襲を仕掛けた[2]

トゥメト部に属するダラトのバートル・ネグレケイが多くの去勢牛を追い立てて、角で喇叭を吹きながら来ると、ダヤン・ハーンの軍団は牛の蹄の音を鎧の響きと勘違いし、驚いて敗走してしまった[2]。この時、ダヤン・ハーンの乗馬が泥中に倒れて起き上がれなくなってしまったが、ベストのトガンという者がこれに気づき、ジョートのサイン・チャキジャ、チャガンの二人が救い出したとの逸話が年代記に伝えられている[3]。敗走の過程で多くの者が峡谷に落ちていってしまったため、この地はヤンガルチャグン・ダバー(いななきの峠)と名づけられ、バートル・ネグレケイは「ふだんに居るときに夢を見て来た、左翼の万人隊。正と邪の二つを判定した、天の主。賛成し賜って落とした、トゥルゲン河の女神。方向ごとにかき乱した、黄金の偉大な光」と詠ったという[3]

更に、再び陣営を張ったダヤン・ハーン軍に対して、トゥメトのホサイ・タブナンは追撃の軍勢を出し、ガハイ・エレスンの地でチャハル部に属するケシクテン・オトクとケムチュート・オトクがトゥメトに襲われ敗れた[4]。こうして、ダヤン・ハーンの軍団は右翼三トゥメンとの戦争の緒戦において敗北を喫してしまった[4]

年代

「ダヤン・ハーンによる右翼三トゥメンの討伐」があった年代については諸説あるが、ガハイ・エレスンの戦いは1508年(正徳3年)に起こったのではないかと考えられている[1]

この戦闘に関して、『明武宗実録』正徳3年10月13日条には「もとトゥルゲン(脱羅干)の部下であった夷人が、モンゴル(虜)の内紛に乗じて明に来降した」との記録がある[5]。トゥルゲン(脱羅干)はホサイ・タブナンの父に他ならず、この記事はダヤン・ハーンとトゥメト部との衝突を伝えているものと考えられる[1]

また、一連の戦役の切っ掛けとなった「ウルス・ボラトの殺害」について、この時1506年丙寅)生まれであったグン・ビリクは「3歳であった」と伝えられており、1506年生まれの数えで3歳は1508年に当たる[1]。よって、「ウルス・ボラトの殺害」から「トゥルゲン河とガハイ・エレスンでのダヤン・ハーンの敗戦」までは、いずれも1508年中に起こったものとみられる[1]

脚注

  1. ^ a b c d e Buyandelger 1997, p. 192.
  2. ^ a b c 岡田 2004, p. 231.
  3. ^ a b 岡田 2004, p. 232.
  4. ^ a b 岡田 2004, p. 233.
  5. ^ 『明武宗実録』正徳三年十月丁丑(十三日),「夷人兀弩骨赤等、進駝馬来降。……兀弩骨赤等、本山西人。其父為虜所掠、属虜酋脱羅干部下。因虜相讐殺、得隙率其族二十一人来降」

参考文献

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • Buyandelger「満官嗔-土黙特部的変遷」『蒙古史研究』第5輯、1997年



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