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ウィリアム・ページ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 05:23 UTC 版)

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ウィリアム・ページ
William Page
自画像:1830年
生誕 1811年1月3日
USA,オールバニ (ニューヨーク州)
死没 1885年10月1日
USA,Tottenville, Staten Island

ウィリアム・ページ(William Page、1811年1月3日 - 1885年10月1日)はアメリカ合衆国の肖像画家である。

略歴

ニューヨーク州オールバニで生まれた。9歳で家族とニューヨークに移り、11歳の時、発明を支援するニューヨーク市アメリカン・インスティチュート(American Institute of the City of New York)から発明に対し賞を受けている。15歳でニューヨークの法律家の事務所で法律を学び始めるがすぐに辞め、肖像画家のジェームズ・ヘリングの元で絵を学び始め、1年たらず後には、設立間もない、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに入学しサミュエル・モールスの生徒となった。アカデミーで銀賞を受けるが、宗教に関心を移し、2年間ほど、長老派教会に入り、神学を学ぶが再び美術の世界に戻った。

1836年にアカデミーの会員になり、1844年から3年ほどボストンで暮らした後、ニューヨークに戻り、1849年頃イタリアに渡り、フィレンツェローマに11年間滞在した。イタリアではフィレンツェに滞在していた詩人ロバート・ブラウニングエリザベス・バレット・ブラウニングのような有名な人々の肖像画を描き、巨匠たちの作品を研究し、特にティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品に関心をもったとされる。1860年にアメリカに戻った。

アメリカでは多くの肖像画を描き、1871年から1873年までは母校のナショナル・アカデミー・オブ・デザインの校長を務めた。1874年にシェークスピアのデスマスクを調べるとして再びヨーロッパを訪れた。

ニューヨークのスタテンアイランドのトッテンビル(Tottenville)で没した。

生涯を通じて、発明への関心が強く、ボートや銃に関する発明の特許を申請していた。絵画の評価では1860年までの作品は評価されているが、しばしば変わった画風が評価を困難にしている。

作品

参考文献




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