ウィリアムエッティ (画家)とは? わかりやすく解説

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ウィリアム・エッティ (画家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:15 UTC 版)

ウィリアム・エッティ
William Etty
ウィリアム・エッティ、1844年10月の写真に基づくセルフ・ポートレート
生誕 (1787-03-10) 1787年3月10日
ヨーク
死没1849年11月13日(1849-11-13)(62歳)
ヨーク
国籍イギリス
教育トーマス・ローレンス
出身校ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ
著名な実績絵画
代表作
選出 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ

ウィリアム・エッティエティ: William Etty RA、1787年3月10日 - 1849年11月13日)は、ヌードを含む歴史画で最もよく知られているイギリスの画家。彼は、1787年3月10日にヨークで生まれた。マシューとエスター・エッティの7人目の子供だった[1]。若いウィリアムは、父親の店の木の床にチョークで描き、幼い頃から芸術的な才能を見せた[2]

略歴

はじめ、画家であった叔父から絵画の訓練を受けた後、1807年から王立美術院(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)の美術学校でジョン・フラクスマン(John Flaxman:1755–1826) などに学んだ。トーマス・ローレンスの影響を受けた。画家として知られようになった1816年にイタリアを旅した。

1821年にシェークスピアの史劇『アントニーとクレオパトラ』に題材を取った、絵画を美術院に出展して画家としての名声は定まった。古典的な主題を扱った作品を描き、その評価は国外でも高まり1822年から1824年の間、パリ、ローマ、フレンチェ、ヴェネツィアで展覧会を開いた。ルーヴル美術館ウフィツィ美術館などの有名な美術館でも展欄会を開いた。

1828年12月に王立美術院の正会員に選ばれた[3]

1830年に再びパリを訪れるが、フランス7月革命のために、すぐにイギリスに戻らなければならなかった。その後の10年間は歴史画を描き、美術院で学生たちを教えてる事もした。1840年にオランダを訪れ、ピーテル・パウル・ルーベンスの作品を研究した。1843年にパリをまた訪れ、描こうとしていたジャンヌ・ダルクの絵のための材料を集めた。

1848年に故郷のヨークに戻り、その後はヨークで過ごした。

作品

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ Farr 1958, p. 2.
  2. ^ Farr 1958, p. 4.
  3. ^ "Our Royal-Academical Lounge". Fraser's Magazine for Town and Country. London: James Fraser. 5 (30): 719. July 1832.

参考文献

  • Farr, Dennis (1958). William Etty. London: Routledge and Kegan Paul. OCLC 2470159 



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