アレハンドロ・フェラントとは? わかりやすく解説

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アレハンドロ・フェラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:30 UTC 版)

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アレハンドロ・フェラント
Alejandro Ferrant
Ramón Cillaによるカリカチュア
生誕 1843年9月9日
マドリード
死没 1917年1月20日
マドリード

アレハンドロ・フェラント(Alejandro Ferrant y Fischermans、1843年9月9日 - 1917年1月20日)はスペインの画家である。[1]

略歴

マドリードで生まれた。父親のフェルナンド・フェラント(Fernando Ferrant y Llausás: 1810-1852)は風景画家で、父親が亡くなった後、有力な画家の叔父、ルイス・フェラント(Luis Ferrant y Llausás: 1806-1868)から美術を学び、王立サン・フェルナンド美術アカデミーでも学んだ。若い頃からスペイン全国展覧会(Exposiciones Nacionales de Bellas Artes)に出展し、21歳になった1864年に3等のメダルを受賞した。新しく創設されたローマのスペイン美術アカデミー (Academia Española de Bellas Artes en Roma) の学生の一人として1874年にローマに留学し、6年間ローマに滞在し、1880年にスペインに戻った[1]。この間1878年にスペイン全国展で最高賞を受賞している。

宗教的なテーマの作品も描き、マドリードの王立サン・フランシスコ・エル・グランデ教会(Real basílica de San Francisco el Grande)やリナレス宮殿(Palacio de Linares)などの装飾画も描いた[1]

王立サン・フェルナンド美術アカデミーの教授などを務め、マドリード現代美術館((Museo de Arte Moderno、1894年創立、1971年に閉館)の館長も務めた[1]。アルゼンチンの画家、ホルヘ・ラルコ(Jorge Larco: 1897-1967)を1911年から1年ほど教えている[2]

息子のアンヘル・フェラント(Ángel Ferrant Vázquez: 1890–1961)は彫刻家になり前衛的な作品を残した。

作品

参考文献

  1. ^ a b c d Pintores del siglo XIX (diccionario de arte). España: Libsa, 2001. ISBN 84-7630-842-6.
  2. ^ «Pintores argentinos: Jorge Larco», artículo en el sitio web Pintores Latinoamericanos. Muestra varias obras de Larco.



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