LADY BLUE
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制作、音楽性
RED WARRIORSの解散が決定的となった頃に制作された曲であり、日本コロムビア所属のプロデューサーである宗清裕之は、4枚目のアルバム『Swingin' Daze』(1989年)に辿り着くまでのターニング・ポイントになった曲であるとも述べている[2]。本作はロックンロール3部作とされる『LESSON 1』(1986年)、『CASINO DRIVE』(1987年)、『KING'S』(1988年)以降の新たな展開を長い間模索していた木暮によって、作曲面での「ひとつの解答」として完成に至った曲であると宗清は述べている[2]。本作は当時隆盛を誇っていたバンドブームにおいて、ロックが徐々に幼稚化あるいは歌謡曲化していく側面があった中で、「日本のロック」に対する反動意識が形としてまとまった作品であり、イントロのコード進行に関して「並外れたひらめきの豊かさを感じる」と宗清は評価している[2]。またドラムスのパターンやベースのフレーズなどが本作の音楽的主張を明確にしていると指摘、さらにダイアモンド☆ユカイが日本においては希少な「本当の意味でのロック・ヴォーカルの担い手」であると主張した上で、本作はRED WARRIORSの全曲の中で「3本の指に入る傑作」であると宗清は結論付けている[2]。本作のレコーディング・エンジニアは坂元達也が担当しており、坂元について宗清は「Red'sサウンドに大きな貢献を果たしてくれた偉大なサウンド・クリエイターである」と述べている[2]。
また本作を制作した木暮武彦は、「いかにもロックバンドがやりそうなハードでスローなバラードをやるのは、ずっと避けていた」と述べており、本作はサビが当時流行していなかったシェイクビートであることから「個性が出せると思った」ために制作を決定、キーボード担当の三国義貴とのリハーサル中にアレンジが決定され納得のできる完成度になったと述べている[3]。また、前作「STILL OF THE NIGHT」(1988年)のミュージック・ビデオ撮影のためにロンドンを訪れたことが影響し、それまではアメリカン・ロック寄りであった音楽性が突如ブリティッシュ・ロック寄りになったと木暮は述べている[3]。
- ^ a b オリコンチャート・ブック アーティスト編 1997, p. 381.
- ^ a b c d e f g RED SONGS 1995, p. 19- 「-解説-」より
- ^ a b Re:Works 2001, p. 2.
- ^ 田所豊 & 朱雀正道 1989, pp. 71–74- 「第一章 ナチュラル・マンの独白」より
- ^ a b LADY BLUE 1989.
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