生駒親睦 生駒親睦の概要

生駒親睦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 09:12 UTC 版)

生涯

駿河国田中藩本多正矩の七男として誕生した(本多正珍の庶長子とする説もある[1])。

養嗣子の生駒親信に先立たれた交代寄合生駒親賢の養子となった。明和8年(1771年)3月25日、将軍徳川家治御目見した。同年8月8日、親賢の隠居により家督を相続した。安永9年(1780年)7月1日、初めてお国入りする許可を得た。生駒家は交代寄合であったものの、それまで参勤交代をしていなかった。天明2年(1782年)2月12日、死去。49歳。家督は子の親章が継いだ。

正室は生駒親賢の養女(実父津田信成、生駒親信の元正室)。1男4女、そのうち養女2人。どちらも義父の親賢の娘であり、片方は京都町奉行などを勤めた旗本牧義珍の室、もう一人は本多正峯と婚約するが、嫁ぐ前に死去した。

参考文献


注釈

  1. ^ 寛保元年(1741年)11月2日とする説もあるが[1]、本多正矩(1735年死去)が父親とすると計算が合わない。一方、本多正珍を父親とする説では計算が合う。

出典

  1. ^ a b 『秋田県史 [通史編] 第7巻 (年表索引編)』(秋田県、1966年)附録 各藩歴代藩主系譜 p.8


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