引田の戦い 豊臣秀吉による仙石秀久らの派遣

引田の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 02:16 UTC 版)

豊臣秀吉による仙石秀久らの派遣

天正11年(1583年)、中央では秀吉と柴田勝家による主導権争いから、近江国において賤ヶ岳の戦いが起ころうとしていた。そのため四国の十河の要請に対して主力の軍勢を割くことはできずにいた。一方、柴田と長宗我部は協定を結び、秀吉勢力を挟む形となった。秀吉は目先の柴田との対決を優先したが、背後を脅かす長宗我部をただ放置することもできなかった。秀吉の命を受け派遣された仙石秀久小西行長、森九郎左衛門等と2,000の軍勢を率い、高松頼邑の守る喜岡城や牟礼城等、諸城の攻略に向かうもこれらを落とせず、一旦小豆島へと撤退した。同年4月に秀久と九郎左衛門は再度讃岐へ侵攻し、海上からすぐに着岸できる引田城に入城した。

引田城落城

阿波国白地で兵を整えた長宗我部元親は、20,000の軍勢を率いて讃岐国へ侵攻した。寒川郡田面山に陣を敷き、虎丸城攻めを開始した。同月21日、仙石秀久は長宗我部軍の香川信景率いる讃岐勢及び、大西頼包率いる阿波勢の計5000が引田に向け進軍中であるとの報を受け、手勢を3つの隊に分け仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平をそれぞれ将とし、奇襲をかけるため入野山麗に伏兵を置いた。仙石の読みは的中し、入野原にさしかかった阿讃勢に対し伏兵隊は鉄砲を浴びせた。奇襲を受けた阿讃勢は退却した。仙石の本隊は追撃をかけ、優勢に戦いを進めていたが、数に勝る阿讃勢はすぐさま隊を立て直し反撃に移ったため、次第に阿讃勢が戦を優位に進めるようになった。一方、阿讃勢が会戦しているとの報を受けた長宗我部は、配下の桑名親光、中島重勝隊らを救援に向かわせた。土佐勢の増援が駆けつけたことで、阿讃・長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒する形勢となったため、仙石勢は隊を乱し多くの将兵を失いながら、引田城へ退却した。この撤退戦で仙石勘解由は前田平兵衛に討たれ、殿をしていた森権平は稲吉新蔵人に討たれた。また、混乱の最中に仙石軍は自軍のを奪われたという話が伝わる。一方の長宗我部勢も無傷ではなく、中島重勝、桑名藤十郎等が討死した。

長宗我部勢はそのまま引田へ進撃し布陣した。翌日、仙石勢の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を行わず、城から退却した。

引田の戦いのその後

仙石は四国本土から一旦撤退し、淡路島と小豆島の守りを固め、瀬戸内海の制海権維持に務めた。一方の長宗我部は天正12年(1584年)6月までに十河存保の居城である十河城や虎丸城も制圧し(「第二次十河城の戦い」)、勢力を失った十河は大坂の豊臣秀吉を頼って讃岐を脱出した。

十河や仙石が再度四国に渡るのは、天正13年(1585年)6月から始まった豊臣秀吉の四国征伐の際となった。十河はこれに協力し長宗我部の勢力は阿波国・讃岐国から一掃された。戦後の豊臣氏による四国国分に際し、十河は旧領である讃岐国十河に3万石を与えられた。ただし仙石秀久の与力大名として、であった。




「引田の戦い」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「引田の戦い」の関連用語

引田の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



引田の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの引田の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS