五月革命 (アルゼンチン) 前触れ

五月革命 (アルゼンチン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 08:47 UTC 版)

前触れ

リニエルスの統治

1806年の英国の侵略を撃退したブエノスアイレスの人々は、ラファエル・デ・ソブレモンテが副王を続けることを許さなかった[27]。ソブレモンテは、戦争がまだ進行中であるのに国庫を持ってコルドバに逃亡した[28]。1778年に成立した法律では、外国の攻撃があった場合に国庫を安全な場所へ移動することを義務付けたが、それでも人々はソブレモンテを臆病者として見た[29]。ブエノスアイレス王立アウディエンシアは彼の帰還を許可せず、代わりに暫定副王として英雄の呼び声高いサンティアゴ・デ・リニエルスを選出した[27]。副王職がスペイン王ではなく、現地の政府機関に選任されたのはこれが初めてで、前例のないことだった[29]が、この任命は後にカルロス4世に批准された[30]。リニエルスはクリオーリョや奴隷たちを含むすべてのブエノスアイレスの人々に武装させ[31]、1807年の二度目のイギリス軍の上陸を阻止しようとするが失敗し、マルティン・デ・アルサガが率いる民兵が防衛に成功した[32]。この軍功で立場の強くなったアルサガは、リニエルスと対立した[32]

リニエルス政権はクリオーリョの間で人気があったが、アルサガやモンテビデオ総督のフランシスコ・ハビエル・デ・エリオなどのペニンスラールには人気がなかった[33]。彼らは新しい副王を指名するようスペイン当局に要請した[34]。半島戦争の勃発をきっかけに、デ・エリオはモンテビデオにフンタを樹立し、副王の権力を公には否定せずまたモンテビデオの独立を宣言することもせずに、ブエノスアイレスからのすべての命令を精査しそれらを拒否する権利を保有しようとした[35]

アルサガは、リニエルス排斥のための暴動を起こした[36]。1809年1月1日、アルサガが議長を務めるカビルド・アビエルトは、リニエルスの辞職と現地フンタの承認を求め、ペニンスラール民兵軍が反乱の支援のために集まった[37]。マリアノ・モレノのような少数のクリオーリョは独立する手段として暴動を支援した[38]が、ほとんどのクリオーリョはこれを支援しなかった[39]。彼らは、副王の政治的権力を無効にするために排斥を望む一方で、クリオーリョとペニンスラールの間の社会的格差を変えずに保持したいアルサガの意図を感じた[39]。コルネリオ・サアベドラが率いるクリオーリョの民兵軍は広場を包囲し、暴動を追い散らした[40]。暴動が失敗に終わった後、反乱者らは武装を解かれた[41][42]。これには多くのペニンスラールの民兵が含まれており、結果としてクリオーリョたちの力が増すことになった[41]。この策略の指導者たちは、モレノを除いて、カルメン・デ・パタゴネスへ追放された[43]。デ・エリオは彼らを解放し、政治亡命者としてモンテビデオに受け入れた[44]

シスネロスの統治

カスティーリャの最高中央評議会は、リオ・デ・ラ・プラタの政治的騒動を終わらせるため、リニエルスに代えて、トラファルガーの海戦にも参戦したベテランの海軍将校バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロスを副王に任命した[45]。マヌエル・ベルグラーノは、リニエルスはスペイン王に副王として任命され、一方シスネロスにはそのような正統性を欠くのだから、リニエルスは反抗するべきだと提案した[46]。クリオーリョの民兵軍はリニエルス支持に前向きだった[46]が、リニエルスは反抗することもなく引き渡した[47]。ハビエル・デ・エリオは新しい副王の権力を受け入れ、モンテビデオのフンタを解散した[48]。シスネロスはペニンスラールの民兵軍を再び武装させ、過去の暴動の責任を許した[49]。アルサガは釈放されなかったが、自宅軟禁に減刑された[50]

アルト・ペルーでは、1809年5月25日に起こったチュキサカ革命英語版によって、チュキサカ総督のラモン・ガルシア・デ・レオン・イ・ピサロが退位させられ、代わってフアン・アントニオ・アルバレス・デ・アレナレスが就任した[51]。7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリリョ大佐が率いたラパス革命では、ラパス総督が解任され新たなフンタが選出された[51]。スペイン当局による敏速な対応がこれらの反乱を打ち負かせた[51]。ブエノスアイレスから派遣された1000名の軍は難なくチュキサカの都市に入り、フンタを転覆させた[51]。ムリリョはラパスを防衛しようとしたが、彼の800名の軍はリマから派遣された5000人以上の軍に圧倒的に数で負けていた[51]。後に彼は他の指導者とともに首をはねられ、彼らの首は反乱の抑止のために晒された[52]。これらの対応が、アルサガをはじめとした暴動の首謀者らへの対応とは激しく対照的であったことで、クリオーリョのペニンスラールに対する恨みはより深くなった[53]


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