トマスクリークの戦い 戦闘

トマスクリークの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 08:33 UTC 版)

戦闘

ブラウンのインディアンとレンジャーの部隊はベイカー隊の進行路で待ち伏せを行い、一方プレボストの正規兵部隊が3列縦隊でベイカー隊の背後に進んだ。5月17日午前9時頃、ベイカー隊が待ち伏せされている場所まで来ると、いきなり正面と側面から50ヤード (45 m) の距離でブラウン隊からの一斉射撃を受けた。ベイカー隊は後ろを向いて逃亡を始めたが、そのままプレボストの正規兵隊に飛び込むことになった。ベイカー隊の兵士は既に縮み上がっており、藪から現れた多数のレンジャーとインディアンにすぐに圧倒された[15]。敵の姿を最初に見たときにベイカー隊の半数は逃亡した。ベイカーはその馬を仲間の一人に取られ、湿地の中に逃げ込んだ[12]

この戦闘で生じた被害状況は史料によって異なる。デイビッド・ラッセルは、ベイカー隊の3名が戦死し、9名が負傷し、31名が捕虜となったとしている。捕虜の多くはその後復讐心の強かったクリーク族インディアンに殺された[2]。チャールズ・ジョーンズは、戦死者と負傷者は同じだが、34名が捕虜になったとしており、ウィリアム・ネスターの史料でも同じである[5]。エドワード・ケイシンは、40名が捕虜になり、そのうち16名だけがクリーク族の報復から逃れたとしている[16]アメリカ合衆国国立公園局の史料では、8名が戦死し、9名が負傷、31名が捕虜になり、そのうち15名が後に殺されたとしている[17]。イギリス側の被害について、トーニン総督もブラウン中佐も報告していない[18]

戦いの後

エルバート隊はこの戦闘の2日後に東フロリダに到着し、アメリア島の北端に上陸した[13]。トーニン総督がこれに対抗するためにセントメアリーズ川に小さな戦隊を送ったが、風のために海に流され、1隻は私掠船との戦闘に巻き込まれていたことをエルバートは知らないまま、重大な出来事も無くアメリア島に到着できていた[19]。エルバートは5月19日にベイカー隊の兵士13名と出逢い、戦闘の報告を受けた[8]。捕虜状態から逃げ出した3名の兵士がその2日後に到着し、仲間の5名が見張りに立っていたインディアから冷血にも殺されたと報告された[20]。この報せと、トーニン総督の小戦隊がいること、さらに自隊の船はアメリア島と本土の間の狭い海峡を通れそうになかったこともあり、エルバートは遠征の中止を決め、5月26日にはサバンナに戻った[13]

セントオーガスティンの軍事指揮官オーガスティン・プレボスト准将(マーク・プレボストの兄)はこの戦闘の成果について正規兵に全面的な功績を認めた。ベイカー隊の残兵をブラウンのレンジャーとインディアンが追撃できなかったことを批判し、「インディアンは略奪品に捉われ、レンジャーは牛に注意を向けた。正規兵は問題なく任務を遂行した」と書いて、ブラウン隊への報償を拒否した[21]

ブラウン隊はジョージアへの襲撃を再開し、それがジョージア植民地での対応を新たにさせることになった。ブラウン隊の襲撃が効果を挙げたことで、トーニン総督は北アメリカイギリス軍総司令官のウィリアム・ハウ将軍に働きかけ、ジョージアを再度支配するための遠征を促すことになった。1778年、アメリカ側のロバート・ハウ将軍と、当時ジョージア議長のジョン・ハウスタンが再度東フロリダに対する遠征を企画した。この遠征も指揮権の問題で損なわれ、フロリダに到着した少数の部隊も、アリゲーターブリッジの戦いに敗れて退却した[22]。1778年12月、イギリス軍がニューヨーク市から派遣した部隊によってサバンナ市が占領され、その直後にはセントオーガスティンから送られた部隊も合流し、ジョージアにはイギリス政府の支配が再度確立された[23]

トマスクリークの戦いの戦場は現在、ジャクソンビルのトマスクリーク保存地にあり、ティムキュアン生態系歴史保存地の一部になっている[24]。戦場跡は開発されておらず、近くを通るアメリカ国道1号線には、戦闘を記念する標識が立っている[25]


  1. ^ a b Searcy, p. 93
  2. ^ a b c Russell, p. 83
  3. ^ Nester, p. 163
  4. ^ Heitman, p. 27
  5. ^ a b c Nester, p. 164
  6. ^ Cashin, pp. 64–65
  7. ^ a b c d Cashin, p. 64
  8. ^ a b Jones, p. 267
  9. ^ Siebert, p. 70
  10. ^ Pennington, pp. 32,39
  11. ^ a b c Pennington, p. 39
  12. ^ a b c Jones, p. 266
  13. ^ a b c d e Piecuch, p. 102
  14. ^ Searcy, p. 95
  15. ^ Pennington, p. 41
  16. ^ Cashin, p. 65
  17. ^ Timucuan Preserve pamphlet”. National Park Service. 2011年8月23日閲覧。
  18. ^ Pennington, pp. 39–42
  19. ^ Pennington, pp. 42–44
  20. ^ Jones, p. 268
  21. ^ Cashin, p. 66
  22. ^ Piecuch, pp. 102–105
  23. ^ Piecuch, pp. 132–134
  24. ^ Thomas Creek Preserve
  25. ^ Florida Historical Markers Program – Nassau County





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