オヤケアカハチの乱 戦闘

オヤケアカハチの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:48 UTC 版)

戦闘

琉球船団は空広が先導した[21]。前述のように、琉球まで行って通報したのも空広である。空広なしに、八重山まで行く航海能力が、果たして中山にあったかどうかは不明である。以下は日付が最も詳しい蔡鐸本中山世譜に依る。

琉球王府は9員を将と為した。将軍としては、筆頭大里親雲上のほか、9番大将として、安波根里主直張が知られる[22][23]。軍船大小100艘、3000人[24]で、弘治13年(1500年)庚申2月2日、那覇より出発した。13日に八重山石垣に至る。(逃亡していた)長田大主は大喜びで、小舟で古見から出てきて、中山軍の道案内を務めた[25]。19日その地界陣勢を見んと欲して、小船に乗って上岸した。之を見たところ、その陣、前に大海に向かいて、後に嶮岨があった。その地の婦女は、皆、草木の枝を持って、天に号し、地に呼んで官軍を呪罵していた(ノロユタといった女性祈祷師らによる呪詛攻撃)。乗船が上岸したのに、ほとんど畏惧する様子はなかった。賊首の堀川原赤蜂(ホンカワラアカハチ)は、真先に出てきて[26]戦を挑んできた。中山兵は、崖に近づいて、お互いに罵りあった。しかし悪日を忌んだので戦わず、軍を引いて退いた。大里が言うには[27]賊奴の鋭気、軽がるしくは敵すべきではない。そこで20日甲辰、46艘を分けて両隊と為し、一隊は登野城を攻め、一隊は新川を攻め、その地で、両辺相戦った。アカハチは応じることができず、官軍はこれに乗じて攻めまくった[28]。終に官軍が勝った。

新川・登野城は現用されている地名で、石垣四箇字の左右の端にあたる。このように離れた場所で同時に攻撃をかけたので、アカハチは対応できなかったと述べられている。


  1. ^ Shinzato, Keiji et al. Okinawa-ken no rekishi (History of Okinawa Prefecture). Tokyo: Yamakawa Publishing, 1996. p57.
  2. ^ 先島側の立場からは琉球(中山)王府と呼ばれる事が多い。また、(統一後の)琉球国王号は琉球国中山王である。
  3. ^ 主に「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」160号
  4. ^ 「忠導氏正統家譜」原文は「諸村令定毎丁賦数矣(諸村をして丁毎に賦数を定めしむなり)」人間毎に割り当てを定めた。ちなみに「丁賦」は人頭税の意味。
  5. ^ 「忠導氏正統家譜」「于時玄雅航于八重山嶋諭彼之島酉長曰相共守附庸之職分而定年々貢物之員数而朝見于琉球述欲竭臣子之忠誠之意矣」「竭」とは「尽」と同義。
  6. ^ 稲村「庶民史」pp.215
  7. ^ 「八重山島年来記」「大浜村赤蜂堀川原与申弐人之者変心を企・・・島中之者共押而身方江引入」
  8. ^ 「山陽姓大宗系図家譜」「当島大浜邑赤蜂堀川原二人之賊党対于王府企変心、四ヶ年年貢抑留、島民全部同心」山陽姓の元祖は宮良親雲上長光であるが、その先祖が長田大主の弟・那礼当であるとして、事績を記している
  9. ^ 「長榮姓家譜大宗」「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」長榮姓は長田大主を元祖とする氏族
  10. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.261以後、「童名がーらの起源と其の継承」と題する章節で、がーら(加和良、加阿良)の実用例が多数挙げられている。
  11. ^ 宮古島旧記による表記。「忠導氏家譜正統」では「根間角嘉良天大之大氏」。かわらもがーらも同じである。天大は天太の表記がより一般的で、当時の首領格の称号。根間大按司の息子、目黒盛豊見親の父。空広の6代前の先祖。
  12. ^ オヤケアカハチ”. www.zephyr.justhpbs.jp. 2019年10月19日閲覧。
  13. ^ a b 「球陽(161号)」
  14. ^ 「山陽姓家譜(1730年代に成立)」を根拠として、仲間満慶山も含めた。
  15. ^ 長田大主の行動は以下による。「球陽(160号)」「八重山島年来記」「長榮姓家譜大宗」「山陽姓家譜」
  16. ^ 大浜pp.81。「元祖・石垣親雲上英乗・童名石戸能。彼の父は、満慶山の長子、嘉平首里大屋子・童名佐嘉伊の長子、嘉平首里大屋子童名満慶山である」
  17. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.294
  18. ^ 大浜pp.83。仲間満慶山についての系図訂正の請願書。請願者は10名だが、その中に憲章姓大宗英乗家の者がいないことを、大浜は指摘している。作成年代については「巳十一月」としかなく、請願者の役職を調査した上で、大浜が推定している。この文書は満慶山から英乗までの4代を次のように記している。「元祖嘉平首里大屋子英極満慶山。二代嘉平首里大屋子英潔童名石戸能。三代嘉平首里大屋子英文童名真蒲戸。四代頭石垣親雲上英乗童名石戸能」これには三つの問題点がある。第一に、満慶山の肩書が何故か首里大屋子になっているが、これは乱以後に生まれた概念である。第二に、二代と三代の童名が、「大宗家譜」のものと全然異なる。第三に、元祖・二代・三代に、「大宗家譜」では書かれていない名乗がでっちあげられている。
  19. ^ 高良pp.19
  20. ^ 高良pp.234
  21. ^ 「忠導氏家譜」「弘治十三年庚申、大将を遣わし征伐之時、玄雅父子、官軍之指導を為す也」/「球陽」160号「・・・大小戦船四十六隻を撥し、其の仲宗根を以て導と為し、」
  22. ^ 大浜pp.54「銭姓家譜」抜粋による。銭姓一世。唐名銭原
  23. ^ 「球陽」159号
  24. ^ 人数は「球陽」159号による
  25. ^ 長田云々については正確な日は不明。「八重山年来記」他多数に載る。
  26. ^ 「蔡鐸本中山世譜」の現代語訳を著している原田禹雄は、この箇所を「首を出して」と訳しているが、これは完全な間違いである。原文では「首出」と書かれているので、「首」は「出」の目的語では有り得ない。「首」には「はじめて」と訓読する副詞としての用法がある。
  27. ^ 大里の考えは「球陽」160号に依る。
  28. ^ この一文は「球陽」160号に基づく。「赤蜂、首尾相応ずる能はず。官軍勢に乗じ、攻撃すること甚だ急なり」
  29. ^ 「即ち仲宗根豊見親を擢んでて宮古頭職と為し、亦真列金豊見親を陞せて始めて八重山頭職と為す。真列金、衿驕自恣にして人民を暴虐す。彼の島の人民、みな疏文を具し、豊見親を琉球に告訴す。即ち頭役を革め去り故郷に摘回す」
  30. ^ 「忠導氏正統家譜」
  31. ^ 「八重山島年来記」「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  32. ^ 全て「山陽姓家譜」による。シシカトノの子供については「球陽(161号)」がより詳しい。ミツケーマの子供については、佐嘉伊が嘉平首里大屋子になった事が家譜から確認できるが、他7人は不詳。
  33. ^ 「球陽」160号では真乙姥、古乙姥
  34. ^ 長田大主の母と同名
  35. ^ 「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  36. ^ 「球陽(160号)」





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