アル・カポネ
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人物エピソード
アルは身長は179cmで、当時としては大柄であった。若い頃のアルは家族思いで、チンピラ時代に3〜10ドルの金を稼ぐと、その金を家に持ちかえり母親に渡すような少年だった。成長するに従い、アルはファイヴ・ポインツ・ジュニアなど色々なギャングに入ったりもしたが堅気の仕事もしており、製本工場やボウリング場で働いていた。
メエとの出会いは19歳のときである。1918年12月4日に息子のソニーが生まれ、12月30日に結婚式が行われた。実際のアルは、結婚してからイェール(ニューヨークのギャング、後出)の下で働くのを一時期やめて、ボルチモアへ行き、建設会社に簿記係(この時代のギャングで簿記が出来たのはアル・カポネぐらいであろう)として就職した。そして、アルは毎日スーツにネクタイのまじめな服装で経営者のピーター・アイエロの事務所へ出勤した。近所の住民によると、当時のアルは頭の良い好人物であったという。しかし、父ガブリエーレが死んだ1920年ごろにジョニー・トーリオとイェールとの付き合いを再開した。
1920年、アルは勤務先のアイエロに退職を申し出た。餞別としてアイエロはアルに500ドル貸し、アルはこの恩義を決して忘れなかった。後年にピーター・アイエロが技術大会でシカゴに来たとき、大物になったアルは彼を歓迎する宴会を開き、シセロではパレードを行なった。
酒の密売については、「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。ボクシング世界チャンピオンのジャック・デンプシーとは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。
アルはその陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。しかしその金は汚い、もしくは違法に稼いだ金が元であった。
アルは世の中について「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある。この稼業に入るまでは悪徳政治家など、世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする悪党がこんなに多いとは知らなかった」と、自らのことは棚に置き、コーネリアス・ヴァンダービルトのインタビューで答えている。
注釈
出典
- ^ “the definition of al capone”. Dictionary.com. 25 3 2020閲覧。
- ^ Al Capone Bio 2023年10月2日閲覧
- ^ J. Torrio 2023年10月2日閲覧
- ^ Capone foes 2023年10月7日閲覧
- ^ 「トーリオ一家vs.オドンネル一家 禁酒法下のシカゴで「ビール大戦争」 24歳の”代貸”アル・カポネ売り出す!」『日録20世紀』第1巻第28号、1997年9月9日、38-40頁、CRID 1130282269046488704。
- ^ 「欲望という名の音楽」 二階堂尚 p.206. 草思社
- ^ 「犯罪王カポネ禁固11年」『読売新聞』、1931年10月26日、夕刊、2面。
- ^ 「カポネの上告棄却/アメリカ」『読売新聞』、1932年5月4日、夕刊、2面。
- ^ “マフィアグッズ専門店”. 2021年4月8日閲覧。
- ^ “2015年 公演ラインアップ【シアター・ドラマシティ、東京特別】<5月~6月・雪組『アル・カポネ ―スカーフェイスに秘められた真実―』>”. 宝塚歌劇団 (2014年11月20日). 2014年11月20日閲覧。
- ^ “「第23回読売演劇大賞」上半期ベスト5が発表に”. シアターガイド (2015年7月28日). 2015年7月30日閲覧。
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