海陵王
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海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王斡本(宗幹)の次男。従弟にあたる第3代皇帝熙宗を殺害し、帝位を簒奪したが、自身も部下によって殺害された[2][3][4][5][6]。第5代世宗即位後、廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される[4]。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。「荒淫の人」として知られる[4][6]。
注釈
- ^ のちに海陵王と合せて「十大悪人」とされた、蕭裕・完顔秉徳・唐括弁・烏帯・大興国・李老僧・僕散思恭・徒単阿里出虎・徒単貞。
- ^ 海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后(悼平皇后)とも仲がよく、女色家として知られていた[6]。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃(劉希)という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている[6]。
- ^ 海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり[6]、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが[3]、当時の経済事情もこれにあずかっていた[4]。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた[4]。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、中原から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた[4]。
- ^ 海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために交鈔が初めて紙幣として発行された。
- ^ この遠征に対する海陵王の自信を示すものとして、宋の使者に徽宗の玉帯を渡し、側近に「それは貴重なものだから」と押しとどめられると、「いずれ取り戻されるものだ」と嘯いた、という話が伝わっている。
- ^ この時、世宗烏禄の立てた大定という年号を聞いて、「宋を滅した後、自分が大定と改元しようと考えていたのに、これが天命というものか」と慨嘆したと伝えられている。
- ^ この3人は、親王時代からの側室。
- ^ 花不如(? - 1161年12月15日)は、長安の人。美しかったため寵愛された。南征中に海陵王の寝所にはべり、4人の用人と一緒に殺された。
出典
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