AC/DCからの解雇
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「フィル・ラッド」の記事における「AC/DCからの解雇」の解説
1980年、ヴォーカルのボン・スコットが急死した。バンドは、新たにブライアン・ジョンソンをヴォーカルに迎え、バンドにとって最高の成功を収めたアルバム『バック・イン・ブラック』を録音した。スコットの死はラッドにとって打撃となり、しばらくはそのままAC/DCに残ったものの、アルバム『征服者』のレコーディング中の1983年に、ラッドはバンドから離脱した。このときラッドは既に自分のパートの録音を終えており、急遽セッション・ドラマーのB・J・ウィルソン(B. J. Wilson)が呼ばれて追加の録音をしたが、結局ウィルソンのドラムは採用されなかった。ラッドに代わって、後にディオのドラマーとなるサイモン・ライトが採用され、アルバムからリリースされるシングル曲のビデオにも出演することになった。 ラッドがバンドから解雇されたのは、ラッド自身の薬物問題や、バンドの創始者でリズム・ギターを担当するマルコム・ヤングとの対立が喧嘩沙汰に至ったことなどが招いた、身から出た錆という部分もあった。AC/DCを解雇されたラッドは、ニュージーランドのタウランガのヘリコプター会社を買収し、同時に引退した。 ラッドがニュージーランドへの定住を決めたのは、有名になり過ぎていたためだった。AC/DCのファンたちは、かつてラッドが住んでいた地区を頻繁に車で走り回り始め、地域の住民たちに接触して、ラッドの所在を探ろうとしていた。 AC/DCを離れていた時期について、後にラッドは「カー・レースをやり、ヘリコプターも操縦したし、農夫になって作物を植えたりしていた。ニュージーランドに住んでいたことは素晴らしかった。きれいで静かで、誰にも邪魔されない」と述べている。一方でラッドは、「しなければいけないということではなく、自分がしたいと思う時に」ドラムの演奏も続けており、自分用のスタジオも建設していた。
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