鶴崎城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:33 UTC 版)
家久は臼杵城の支城である鶴崎城の攻略を伊集院久宣・野村文綱・白浜重政に任せている。当時の鶴崎城主は吉岡統増(鎮興の子)であったが、統増は臼杵城に詰めており、守っていたのはその母である尼僧の吉岡妙林であった。ところが妙林は落とし穴戦法など巧みな戦術で島津軍に多大な損害を与えた。が、兵糧が尽きて降伏する。このとき島津軍と城方は宴会を開いて久闊を祝したが、天正15年(1587年)3月に家久から撤退命令が届いた。秀吉は前年末に徳川家康を上洛させることで臣従させており、畿内の大軍を九州に派遣したのである。このため、島津軍は撤退することになったが妙林は反撃の機会を待っていたため、島津軍が乙津川あたりに到達したときに奇襲をかけた。この奇襲で久宣と重政が戦死し、文綱も戦傷を負い、後にこれがもとで死んだ。 鶴崎城 高田郷 鶴崎村。吉岡掃部介 之拠。天正之戦。其母 奇計 以 薩之三将 欺 効有。即此。事于下 具。 —『豊後国志』
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