馮勝、兄の後を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:44 UTC 版)
馮国用の死後、子の誠が幼かったため、馮勝が典親軍の地位を継いだ。一方、朱元璋は集慶を応天府と改名し、後々までの拠点とした。 至正20年(1360年)、西の軍閥陳友諒が応天府を攻撃したが、朱元璋は奇計を用いて石灰山で挟み撃ちにした。馮勝は中堅として活躍し、采石・太平の奪還に大きく貢献した。鄱陽湖の戦いにも従軍し、江西の諸都市を落とすのに貢献した。
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