韓の上党郡守から趙の華陽君へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 15:18 UTC 版)
「馮亭」の記事における「韓の上党郡守から趙の華陽君へ」の解説
紀元前265年、秦の武安君白起が韓を討ち野王の地(現在の河南省焦作市沁陽市)を得た。上党の地は韓の領土としては飛び地となり、韓は秦に対して陽城君を謝罪の使者として派遣すると、上党を割譲する事を条件に秦に対して和議を申し入れた。 一方で上党郡守を勤める靳黈の元に使者を派遣して当地を離れる様伝えたが、靳黈はその命に背いて上党に留まり続けた為、韓の桓恵王は秦の宰相范雎に許可を得、約束を違えず上党の地を割譲する為に靳黈を上党郡守から解任し、馮亭を改めて上党郡守に任じた。 馮亭は上党に着任して一月後、上党の民を「韓の都である新鄭とは連絡を断たれ、秦は上党に向け軍を進めてきている為、このままで韓の力は宛に出来ない。この上は趙にこの地を捧げて帰服すれば、秦は趙を攻めざるを得ず、そうすれば韓と趙は協力して軍を出して秦に抗する事が出来る」と扇動し、民の支持を得ると趙に上党の地を献上する旨の書簡を出した。 これを受け、趙の孝成王は平原君とその弟の平陽君に相談し、平原君は上党の接収に賛成、平陽君は接収に反対したが、孝成王は悩んだ末に上党郡の接収を決断すると、軍を派遣した。 馮亭は趙から華陽君の称号と食邑三万戸をもって封侯された。
※この「韓の上党郡守から趙の華陽君へ」の解説は、「馮亭」の解説の一部です。
「韓の上党郡守から趙の華陽君へ」を含む「馮亭」の記事については、「馮亭」の概要を参照ください。
- 韓の上党郡守から趙の華陽君へのページへのリンク