開山撫蕃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:22 UTC 版)
沈葆楨は台北府設置の奏請以外に、地域間格差の是正を目的に台湾前山、後山の開発を行なった。開発と同時に撫蕃を行い積極的な後山地区の開発を推進するために、後山への交通路として北路、中路、南路の建設を行った。北路は噶瑪蘭庁蘇澳から花蓮奇莱までの205里、中路は彰化林圮埔から花蓮璞石閣までの265里、南路は屏東射寮至から台東卑南までの214里である。中路は現在も残存しており、国家一級古蹟に指定され、八通関古道と称されている。 沈葆楨の撫蕃政策は台湾原住民を漢化させるものであり、原住民の人口土地調査を行い共通言語と私闘を禁止し、蕃学の設置や道路の建設などを行なった。また随時蕃社を招撫し漢人に対する武力を中止させると共に、それに反対するものに対しては兵力により鎮圧を行なった。 この他、沈葆楨は撫蕃政策が成功すれば漢人の台湾移住、山地への漢人による入植、原住民との通婚などの制限を撤廃する必要があると考え、同治14年2月に台湾に関する一切の禁令を解除している。
※この「開山撫蕃」の解説は、「沈葆楨」の解説の一部です。
「開山撫蕃」を含む「沈葆楨」の記事については、「沈葆楨」の概要を参照ください。
- 開山撫蕃のページへのリンク