開場から1998年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:38 UTC 版)
「三ツ沢公園球技場」の記事における「開場から1998年まで」の解説
1955年開場。1964年の東京オリンピックサッカー競技の会場としても使用された。その後は日本サッカーリーグ(JSL)で古河電気工業サッカー部、日産自動車サッカー部、全日空横浜サッカークラブなどが試合を開催した。これ以外でもアマチュアサッカーやラグビーの試合で頻繁に使用され、同球技場は神奈川県や東日本でのサッカー・ラグビー大会の開催地として重用された。 1991年にJリーグの発足と横浜マリノス(前身は日産自動車)・横浜フリューゲルス(同全日空横浜)の参加が決まると、横浜市内を本拠地 とする両チームのホームスタジアムとして三ツ沢球技場が選定され、当時のJリーグ(現在のJリーグ ディビジョン1(J1))規格を満たす約15,000人を収容できるスタジアムとして、リーグ発足の1993年に増築された。 三ツ沢球技場は1998年3月には同年10月の第53回国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)の主会場として、かつ2002年6月の2002 FIFAワールドカップ(W杯日韓大会)の開催予定地として横浜国際総合競技場(2005年から「日産スタジアム」)が完成したのに伴い、マリノス・フリューゲルス両チーム共に2つのスタジアムを併用する体制となった。1998年は国体開催に向けた芝生保護や各種準備の関係で横浜国際での試合開催が制限され、三ツ沢球技場での開催が半数近くに及んだが、10月になって同年限りで両チームが合併することが発表され、サポーターからの強い反発を呼んだ。11月7日、三ツ沢で開催されたフリューゲルスのJリーグ最終主催試合ではゲルト・エンゲルス監督や選手達が合併反対の意思を表明し、エンゲルス監督は観客席のサポーターに対して日本語でチームの救援と存続を訴えたが、これは叶わなかった。 詳細は「横浜フリューゲルス#チーム合併消滅と天皇杯優勝」を参照
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