長野市上水道との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:26 UTC 版)
瑪瑙堰を整備し長野町(長野市)の飲用水として用いる試みが見られた。 1880年 (明治13年) 、露木某が、堰を分水して長野町の飲用水に用いる事を長野戸長と長野町会に諮問した。1882年 (明治15年) 、箱清水村出身の町会議員が、瑪瑙堰を長野全町の資力をもって修築し田用水と長野町の消防水に用いるとして建議書を提出したが方法が不完全であるとして否決された。1883年 (明治16年) 、北佐久郡小諸町の小林某が、堰を修理し長野町の飲用水に使うことを長野町戸長および町会議員に諮ったが否決された。1888年 (明治21年) 5月、長野町から瑪瑙堰を改修して長野町の防火用水と飲用水に用いるとして申し出があり、分水契約を結んでいる。長野町による引水整備は1893年 (明治26年) 頃まで活動が見られるが実現には至らず、1826年 (大正15年) まで持ち越される。また1885年 (明治18年) の長野町・西長野町・南長野町・鶴賀村による四ヶ町村連合水利組合の測量調査では戸隠道及び瑪瑙堰を仮の水道路とした。瑪瑙堰は失敗に終わったが、長野市における水道整備の発端としての見方が強い。
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