五銭紙幣
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五銭紙幣(ごせんしへい)とは日本銀行券の1つ。五銭券、五銭札とも呼ばれる。
注釈
- ^ 確認例は非常に少ないが、未発行の16組の存在が確認されている。
- ^ 開戦前は白銅、青銅や純ニッケルを材料とした硬貨が発行されていたが、軍需用資材として転用させられたため、黄銅、更にアルミニウムなどを材料とした硬貨に代えられた。また、戦況の悪化に伴い寸法や量目(重量)についても度重なる縮小・削減が行われている。更に戦況が悪化すると、果ては貨幣用として適当な素材とは言い難い錫・亜鉛の合金を材料とした硬貨も発行されたが、大戦末期までにこれらの素材すらも確保が困難となり枯渇状態に陥っている[2]。1945年(昭和20年)の終戦時に製造されていた硬貨は、一銭錫貨のみという状況となっていた。
- ^ 記号の頭1桁と下2桁を除いた残り1 - 2桁
- ^ 郵便切手については軍国主義的と見做されたデザインのものは発行及び使用が直ちに禁止された(追放切手)が、紙幣については従前から継続して発行・流通しているものについては引き続き発行・使用することが認められていた。
出典
- ^ a b c d 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「 小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」
- ^ a b c d e f g 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、192-195頁。
- ^ a b c d e 1944年(昭和19年)10月25日大蔵省告示第489號「日本銀行券ノ種類ニ拾錢券及五錢券追加發行」
- ^ a b c d e f g h i 大蔵省印刷局『日本銀行券製造100年・歴史と技術』大蔵省印刷局、1984年11月、312-313頁。
- ^ a b 大蔵省印刷局『日本のお金 近代通貨ハンドブック』大蔵省印刷局、1994年6月、242-255頁。ISBN 9784173121601。
- ^ a b c d e f g 植村峻 2015, pp. 177–181.
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、188頁。
- ^ a b c d 1948年(昭和23年)5月25日大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式」
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、266頁。
- ^ a b c d e 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、208-210頁。
- ^ 植村峻 2019, pp. 67–70.
- ^ 植村峻 2019, pp. 74–75.
- ^ a b c d e f 植村峻 2015, pp. 201–202.
- ^ 植村峻 2019, pp. 72–73.
- ^ 『日本紙幣収集事典』原点社、2005年、244頁。
- ^ 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、189頁。
銭屋五兵衛
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銭屋 五兵衛(ぜにや ごへえ、安永2年11月25日(1774年1月7日) - 嘉永5年11月21日(1852年12月31日))は、江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。金沢藩の御用商人を務めた。姓名の略から「銭五」とも呼ばれる。幼名は茂助。「五兵衛」は銭屋代々の当主が襲名する通称だが、この項では最も著名な最後の当主(三代目)について説明する。
- ^ この話の概要は次のとおり。明治24年の数年前、豪州に行った日本の軽業師が、タスマニアで5、6個の碑石を見つけた。苔をはがして確認すると「かしうぜにやごへいりようち」(加州銭屋五兵衛領地)の文字が表れ、人々は驚いた。しかしその話が現地の英国人に伝わり、碑石は英国人の手で直ちに撤去された。それら碑石の所在した場所が土地の境界であれば、銭屋五兵衛の領地はタスマニアの1⁄3に及ぶと推定される(梅原忠蔵 編『帝国実業家立志編』347頁以下(明24,図書出版会社))。この話について、そのころタスマニアにわたった日本の軽業師の存在自体が疑わしいとされることもあったが、ノンフィクション作家・遠藤雅子の調査により、タスマニアの地元紙・「マーキュリー(en:The Mercury (Hobart))」の明治20年(1887年)1月13日~18日付紙面及び「ローンセストン・イグザミナー(en:Launceston Examiner)」の同年1月12日付紙面に、日本人興行団「ジャパニーズ・ビレッジ」の一行のタスマニア訪問について書かれた記事が存在することが確認された(遠藤雅子『幻の石碑』113-115頁,214-215頁(1993,サイマル出版会))。
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