野村龍太郎
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野村 龍太郎(のむら りゅうたろう、1859年2月27日(安政6年1月25日) - 1943年(昭和18年)9月18日)は、大正・昭和期の土木技術者・鉄道官僚・実業家。
注釈
- ^ 『国民過去帳 明治之巻』1191頁では野村煥、鈴子の子。
- ^ 制度改革については犬塚自身も必要性を認めており、3月には野村から相談を受けていた。ところが5月13日に内地から帰任した伊藤が翌14日に重役会議を開き野村の腹案とは違う自身の改革案を提示し15日に実施を発表する。この伊藤案では新たに総務部を設け社内全般の権を集中させ伊藤自らがその任にあたるようになっており、特に電燈、ガス、鉄道工事といった技術部門までも総務部に併合させることは会社経営の根本義を無視したものであるとして反対を表明した。満鉄では創立当初に部局制を採用して不都合が生じたため合議制に改めた経緯があり、今回の改革案については今一度検討すべく提案したが入れらず会議後には人を使った威嚇などによる説伏が試みられた。[3]
- ^ 野村は、総裁に就任し諸般の調査を終え、漸くこれから経営に着手しようという矢先に落ち度もなく辞職することは不本意であり、且つ三十年来の友人である仙石が解職はすでに政府の決定事項であるとして辞職を迫ることは納得がいかないとして勧告を断っている。[4]
出典
- ^ 『官報』第505号、大正3年4月8日。
- ^ 菊池寛の『満鉄外史』では、副総裁の伊藤大八のいいなりとなった無能極まりない人物として描かれている。
- ^ 『東京朝日新聞』大正3年7月15日「犬塚理事報告内容」。
- ^ 『東京朝日新聞』大正3年7月15日「仲裁運動不成功」。
- ^ 『立憲政友会史. 第四巻』28-29頁。
- ^ 『南満洲鉄道株式会社十年史』119頁。
- ^ 山浦貫一『森恪. 下』433頁。
- ^ 蓑洲会編『野村龍太郎伝』292-294頁。
- ^ 蓑洲会編『野村龍太郎伝』290頁。
- ^ 『読売新聞』大正7年2月3日「株式募集広告」。
- ^ 『日本全国諸会社役員録 第27回』下編296頁。
- ^ 蓑洲会編『野村龍太郎伝』295頁。
- ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
- ^ 『官報』第6007号「叙任及辞令」1903年7月11日。
- ^ 『官報』第7547号「叙任及辞令」1908年8月21日。
- ^ 『官報』第442号「叙任及辞令」1914年1月21日。
- ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7690号・付録「辞令」1909年2月17日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『国立国会図書館デジタルコレクション 西濃人物誌』 。
- ^ 蓑洲会編『野村龍太郎伝』16頁。
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- 2 野村龍太郎の概要
- 3 親族
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