野呂瀬主税助とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 野呂瀬主税助の意味・解説 

野呂瀬主税助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/11 16:03 UTC 版)

野呂瀬 主税助(のろせ ちからのすけ、生没年不詳)は、江戸時代初期の尾張藩士。諱は直自、号は恕山[1]

生涯

甲斐国巨摩郡十日市場(現在の山梨県南アルプス市十日市場)出身[1]

もとは武田家に仕えていたが[2]、同家滅亡後は徳川家に臣従し[2]徳川義直の下で勘定奉行を務めた。清洲越しの際に名古屋城下で彼が屋敷を構えた土地は「主税町」と呼ばれるようになった。末裔は幕末まで同地に屋敷を構え[3](屋敷跡地はカトリック主税町教会となっている)、「主税町」の地名は2019年現在も使用されている。

主税助は尾張名古屋に移った後も郷里十日市場の安養寺を大檀越として支援し、元和5年(1619年)に六地蔵菩薩の掛絵(南アルプス市指定文化財)[4]寛永17年(1640年)に自筆の『鼻採地蔵縁起』(南アルプス市指定文化財)[4]、野呂瀬家系図を奉納している[5]。『鼻採地蔵縁起』は、安養寺の地蔵童子に身を変え、代かき作業の際に馬の鼻をとり、困っている農民を助けたという伝承を記すものであるが[5]、同時に十日市場の繁栄を記録した文献でもあり[5][2]、「十日市祭典」についての最古の記録である[2]

甲斐国志』は、寛政年間に巨摩郡寺部村に野呂瀬主税助が屋敷を与えられ野呂瀬と呼ぶようになったとする説を紹介するが[1]、同書は寺部村八幡宮にある天正年間の板記に、加々美荘7か村のうちに野呂瀬村があることを記している[1]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 昔、十日市場付近にあったという野呂瀬村について知りたい。”. レファレンス共同データベース. 2019年4月30日閲覧。
  2. ^ a b c d 南ア・伝承館 寄贈した出身の尾張藩士紹介 十日市伝える最古の文献”. 南アルプス市ふるさとメール. 南アルプス市. 2019年4月30日閲覧。
  3. ^ 三 名古屋教区と主税町教会の歴史 (pdf)”. カトリック名古屋教区. 2019年4月30日閲覧。
  4. ^ a b 掛絵六地蔵菩薩像6面付厨子・地蔵菩薩像縁起一巻”. 南アルプス市. 2019年4月30日閲覧。
  5. ^ a b c 4.武田氏と家臣団の足跡”. 文化財Mなび. 南アルプス市. 2019年4月30日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「野呂瀬主税助」の関連用語

野呂瀬主税助のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



野呂瀬主税助のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの野呂瀬主税助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS