護送船団 (ドイツ史)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/18 15:23 UTC 版)
ドイツ史における護送船団(ごそうせんだん、ドイツ語: Konvoischifffahrt)とは、通商航海を外敵の攻撃から保護する船舶運航の一形態である。これはいわゆる「独航船」、すなわち単独で航海する船舶に対し、危険の軽減を試みるものであった。護送船団は商人が自主的に編成する場合もあったが、国家が提供することもあった。これらの組織、もしくは必要によって船舶の「集団運航」(ドイツ語: Admiralschaft)が発達し、ドイツではハンブルク、ブレーメンとブランデンブルクに提督府(ドイツ語: Admiralität)が置かれている。船舶の武装は主に商人が自弁した他、国家から借用することも可能であった。
- ^ 最古の条約はブリーレとズィーリクゼーが1369年に取り交わしている。その中で両市は、バルト海へ向かう商船を保護するべく、それぞれ1隻の船を武装している。しかし文言は、それら2隻の船に差があったことを示している。1隻は「平和艦」、もう1隻は軍艦であったと見られる。Bijl: De Nederlandse Convooidienst. 1951, p. 6–7
- ^ 一例として、イェロニムス・ファン・ディーストの絵画(ディエップ城美術館収蔵)を挙げる。
- ^ 護衛艦には、いわゆる「市の護衛艦」(ドイツ語: Stadtkonvoischiff)も含まれていた。充分な交易活動を通じて影響力と富を得たハンブルクやブレーメンなどの町は、神聖ローマ帝国に属していたものの帝国自由都市としての地位を享受し、独自の「市の護衛艦」を発注する権限を持っていたのである。
- ^ 市議会はその書簡の中で、これらの艦艇を折に触れて「オルロークシッフ」、すなわち「軍艦」と呼称している。これに対し、ハンブルク提督府も商業界も対外的には、それらが商品の防衛に寄与するものであり、ハンブルクの戦争行為のために発注されたものではないと断言している。
- ^ ハンブルクの沖合で船が停泊し、新しい護送任務に向けて待機している時、それらの大砲の一部は船団武器庫に収められ、必要に応じて市壁の防衛に用いられた。しかしハンブルクが護送船団を編成した時代の末期には、全ての艦船を港側の防衛・確保のために浮き砲台や警備船として用いられるよう、これらの大砲は船に残されている。
- ^ ハンブルクは17世紀中盤、独自の軍艦を持たず、ひとまず何隻かのトンネンボーヤー(設標船)を商船隊の護衛に当てる他なかった。ハンブルク提督府の創設から44年後、艦への出資を巡る激しい争いを経て1667年、ようやく2隻の護衛艦が発注されたのである。
- ^ 数字には私設護衛艦や、1665年から1668年にかけて補助的に用いられたトンネンボーヤーの航海も含まれている。
- ^ a b Ernst Baasch: Hamburgs Convoyschiffahrt und Convoywesen. 1896, p. 371.
- ^ Ernst Baasch: Hamburgs Convoyschiffahrt und Convoywesen. 1896, p. 395.
- 1 護送船団 (ドイツ史)とは
- 2 護送船団 (ドイツ史)の概要
- 3 文献
- 4 関連項目
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