護佐丸
護佐丸
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護佐丸(ごさまる、 - 1458年)は、15世紀の琉球王国(中山)の按司。恩納村出身。大和名は中城按司 護佐丸 盛春(なかぐすくあじ ごさまる せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。ただし何れも後世に付けられたものである。第一尚氏王統建国の功臣で、尚氏6代の王に仕えながら晩年に謀反を疑われて自害し、忠節を全うしたと伝えられる。毛氏豊見城殿内の元祖。
- ^ いしゐのぞむ「古琉球史を書き換へる」『純心人文研究』第28号、長崎純心大学、2022年2月、213-240頁、CRID 1050291768469112064、ISSN 13412027、国立国会図書館書誌ID:032010890。
及び八重山日報日曜談話連載「小チャイナと大世界」129、令和四年六月二十六日。 https://www.shimbun-online.com/product/yaeyamanippo0220626.html 及び「尖閣島名の淵源(下)補説」、『純心人文研究』29、令和五年二月。 https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/records/267 - ^ 「統一独立の琉球なかった」 石井氏が新説、第一尚氏も否定 八重山日報令和六年六月十六日 https://yaeyama-nippo.co.jp/archives/23433
- ^ しまぬゆ 1 ―1609年、奄美・琉球侵略 著者 「しまぬゆ」刊行委員会編; 出版社 南方新社 P72
護佐丸
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「まんが首里城ものがたり」の記事における「護佐丸」の解説
もともと、北山・読谷の按司(城主)であったが、北山王・攀安知の暴走に反感を持ち、中山・尚巴志に帰順して1419年に巴志とともに北山を打倒する。巴志は彼を北山守護職及び座喜味城主とした。巴志の死後も歴代国王の信頼が厚く、「義理を重んじる家来」とされたが、近隣の城主である阿麻和利の策謀にはまり1458年自刃する。彼の末子と大城賢雄により仇討ちが果たされた。
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