謀殺事件に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:06 UTC 版)
前述の通り『大友家文書』や『豊後大友物語』から島津内通の疑いにより謀殺されたとされている。 この疑いの原因である宇佐龍王城取扱については二宮修二氏は『別府史談』にて「鎮秀は講和という形であれば問題がないと考えていたが、家中からの誹りが想像以上であったことが疑いを強めたのでは」とし、「地元狭間への思いが強く、また主君・義統への思いがそれほどなかったために宇佐龍王より権現岳を優先したのでは」としている。 謀殺に関わった大津留氏らは狭間防衛に振り回されたために領地を侵されたことを、宇佐龍王の家臣は見捨てられたこと恨んだのではと推察できる。 また鎮秀は義統よりも宗麟を敬っており、鎮秀内通の疑いに対して義統はさほど興味を持たなかったのではとも推察できる。 どちらにしても資料上「薩摩内通」が大友家で共通認識されており、謀殺を逃れるすべはなかったという結論が出せる。
※この「謀殺事件に関して」の解説は、「狭間鎮秀」の解説の一部です。
「謀殺事件に関して」を含む「狭間鎮秀」の記事については、「狭間鎮秀」の概要を参照ください。
- 謀殺事件に関してのページへのリンク