要塞の建設と破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 18:51 UTC 版)
1815年、カウアイ島のカウムアリイ王(Kaumualiʻi)は、すでにカメハメハ大王へ恭順を誓っていたのもかかわらず、ロシア帝国の国策会社である露米会社のドイツ人、ゲオルク・アントン・シェファー(Georg Anton Schäffer)に会った時、ロシア帝国のアレクサンドル1世の保護国になってもいいとの条約を認める。カウムアリイ王はシェファーへカウアイ島南西部のワイメアに要塞を作る許可を与え、アレクサンドル1世の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナの名を取って、エリザベス要塞(Fortress Elizabeth)と名付けられた。また同時期に、カウアイ島北部のハナレイ(Hanalei)にアレクサンダー要塞(Fort Alexander)とバークレイ・デ・トリー要塞(Fort Barclay-de-Tolly)も露米会社により作られている。 1817年、エリザベス要塞はワイメア川の左岸に、ワイメア湾を見下ろすように作られ、そこは1778年にジェームズ・クックが初めてハワイ諸島へ上陸した地点のワイメア川向かいであった。要塞の全体はほぼ八角形の星型要塞で、縦91メートル、横140メートルで、堡塁は高さ6.1メートルであった。要塞の中にはロシア正教会があり、これはハワイで最初の正教会であった。しかし、シェファーにロシア皇帝の後ろ盾がないことが分かり、彼はカウアイ島を退去させられた。王国の海軍を率いていたアレクサンダー・アダムス(Alexander Adams)は1817年10月少し前にエリザベス要塞を占領して、ロシア国旗をハワイ王国国旗に変えている。 1824年にカウムアリイ王の息子のフメフメ王(Humehume)がこの要塞を襲って反乱を企てるが、逆にそこで捉えられてしまう。要塞は1853年に使用中止されている。 その後、1860年代にエリザベス要塞にあった銃、大砲なども取り外されて、要塞は完全に廃棄された。
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