藤原義雅
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藤原 義雅(ふじわら の よしまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。周防守。名は義理とも。
略歴
天元4年(981年)12月27日、周防守に、長保3年(1001年)には出羽守に任ぜられた[1] [2]。
長保3年(1001年)には、義雅は出羽城介某信正を殺害している[2]。 またこの頃は藤原道長が権勢を振るった時期で、義雅は道長の家司受領であった可能性がある。
『権記』の長保4年(1002年)2月19日条では、何らかの問題によって前司・義雅に対する不与解由状が提出されていたことと、その不与解由状に添えられた周防介日置有光の自署の誤記が指摘されている [3]。
参考文献
- 『国司補任 3』(続群書類従完成会 、2000年、342p)
- 『国司補任 4』(続群書類従完成会 、2000年、186p)
- 『山口県史: 史料編. 古代 - 第 1 巻』(山口県、2001年、341p)
脚注
- ^ 続群書類従完成会 2000, p. 342.
- ^ a b 続群書類従完成会 2000, p. 186.
- ^ 山口県 2001, p. 341.
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