第3回帝国議会とは? わかりやすく解説

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第3回帝国議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/03 06:21 UTC 版)

第3回帝国議会(だい3かい ていこくぎかい)は、1892年明治25年)5月6日開会された大日本帝国帝国議会(特別会)。会期終了は同年6月14日


注釈

  1. ^ 院内会派であった「温和派」の大成会は衆議院解散によって会派が解消し、1892年4月23日、これに代わり「中央交渉会」が発足した。これは無所属議員を圏域ごとに取りまとめ、地域団体の連絡交渉機関として設立された組織である[2]。「中央交渉部」と記す文献もあるが、それは俗称である[2]
  2. ^ 松方内閣は保安条例を発令し、5月21日に在京の民党系壮士ら143名に退去命令、30日にも37名に退去命令を下した[1][3]
  3. ^ 首相松方正義井上馨は選挙干渉の処理を相談しあっていたが、伊藤博文が枢密院議長を辞めると表明し、新党を結成するという風聞が流れたことがからんで、陸奥宗光と後藤象二郎は大臣職を辞すると表明した[4]。品川内相は松方内閣の弱体ぶりと閣内不統一に愛想をつかせて辞職したのであり、選挙干渉の責任をとって辞職したわけではない[4]
  4. ^ 伊藤は山縣有朋と相談し、今後選挙干渉を認めるか、責任閣僚の更迭が必要かを決める方が先であり、解散については首相より奏請がなされてから、はじめて天皇が枢密院に諮詢なさるべしということで話がまとまり、この合意は山縣より明治天皇に伝えられた[2]
  5. ^ 「内閣不信任」状態であっても、当時の日本の内閣は天皇に対し責任を負うのであって、国民に対しての責任はなかった[2]
  6. ^ 佐々木隆は、非常事態対処の規定が充実している点は、大日本帝国憲法の長所だと述べている[2]。なお、濃尾地震は1891年10月28日岐阜県本巣郡を震源地とする大地震で、推定マグニチュード8.0、7,273名の死者を出した。

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