第二次黒井城の戦いまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 05:07 UTC 版)
「黒井城の戦い」の記事における「第二次黒井城の戦いまでの経緯」の解説
この後、光秀は畿内を転戦し、石山本願寺攻め(天王寺の戦い)、雑賀攻め、信貴山城の戦いなどに出陣しており、丹波に集中出来る状況ではなかった。明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍団」だったと思われる。 一方、同年4月、黒井城の荻野直正・赤井忠家は信長に詫言を伝え、赦免されていた。天正4年(1576年)と推定される4月13日付で矢野弥三郎に宛てられた織田信長朱印状があり、直正・忠家が詫言を伝えてきたため赦免したと伝え、信長方に服属した者の身上は今までと変わらず、当知行も相違ないとする内容となる。矢野弥三郎は丹後国加佐郡におり、丹後に出兵したことのある直正の赦免が丹後の矢野氏にとって不利に働かないと伝えたものと考えられる。また、この朱印状により第一次黒井城の戦いの3か月後に直正らが織田氏と和睦していたことが分かる。
※この「第二次黒井城の戦いまでの経緯」の解説は、「黒井城の戦い」の解説の一部です。
「第二次黒井城の戦いまでの経緯」を含む「黒井城の戦い」の記事については、「黒井城の戦い」の概要を参照ください。
- 第二次黒井城の戦いまでの経緯のページへのリンク