第二次工程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 17:47 UTC 版)
1932年4月 - 清書・加筆された「原稿」から出版に向けた「最終原稿」の作成が開始される。この頃より原田種成が辞書編纂に加わった。原田によれば、遅くともこの時点以降に諸橋が編纂に関わることはほとんどなく、辞典本文を一字も書いておらず校正刷りも見ていない。諸橋は、場所を用意したり、人を頼んだり、資金を調達したりといったプロデューサーとしての役割を果たしたのみである。 1933年 - 神田区錦町3丁目に、大漢和辞典専用の特設組版所を新設。 1934年4月 - この時点において、「最終原稿」の進捗率は全体の3分の1程度しか進まず、1935年3月までの1年間で残りの3分の2を完成させることとなった。7月、最終原稿からの組版作業を開始。 1935年3月31日 - 期日までに原稿が全て完成。しかし実際には一部(12巻904ページ以降)は完全にはできておらず、これらは4月中に遅れて完成した。 1935年3月 - 杉並区の天沼に一軒家を借り、そこを編纂室とする。諸橋はその家を「遠人村舎」と名付けたが、諸橋自身は編纂中はこの家を一度も訪ねたことはなかったという。ここでは専ら、校正刷の修正作業が行われたが、再校で補入された分量は原文の5割にも達した。 1936年12月末 - 「遠人村舎」は閉鎖され、編纂室は西落合に新築された諸橋邸「茶室」へと移動する。
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