神応寺 (水戸市)とは? わかりやすく解説

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神応寺 (水戸市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 01:30 UTC 版)

神応寺
所在地 茨城県水戸市元山町1丁目2−64
位置 北緯36度22分46.3秒 東経140度27分25.1秒 / 北緯36.379528度 東経140.456972度 / 36.379528; 140.456972座標: 北緯36度22分46.3秒 東経140度27分25.1秒 / 北緯36.379528度 東経140.456972度 / 36.379528; 140.456972
山号 藤沢山
宗旨 時宗
宗派 時宗遊行派
本尊 阿弥陀如来
開山 他阿普光
開基 佐竹義宣
正式名 藤沢山神応寺
(藤澤山神應寺)
別称 水戸藤沢道場
法人番号 5050005000696
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神応寺(じんのうじ)は、茨城県水戸市にある時宗寺院。「神應寺」とも書く。

概略と沿革

時宗遊行派の総本山である清浄光寺は、永正10年(1513年)に合戦に巻き込まれて焼失した。その地を支配していた後北条氏に睨まれていたために、再建することができず、約百年に亘って藤沢上人(遊行上人を引退した清浄光寺住職)と本尊は、各地を流浪することになった。

そこで佐竹氏の一門出身である遊行32代他阿普光は、佐竹義宣を頼って、水戸の地に藤沢道場を建立することとした。天正19年(1591年)、水戸城下の後に藤沢小路と呼ばれる神生平(かのうだいら)に建てられた。こうして短い間だが、遊行派本山となった。当初は寺号がなかったが、清浄光寺再興を受けて寛永10年(1633年)に神応寺と改称し、延宝8年(1680年)に現在の元山町の地に移転した。

境内には広大な墓地があり、中に居合術田宮流中興の祖・和田平助正勝、軍学者・山国兵部共昌、その実弟・田丸稲之衛門直允らの墓がある[1]

雷除けで信仰を集めた蹴揚観音があり、かつては別雷大神を祭祀していたが、神仏分離令により、隣の敷地で独立した。本地仏は現在も当寺で祀られている。

文化財

  • 「慷慨淋漓(こうがいりんり)の碑拓本附台石(ひたくほんつけたりだいいし)」[2] - 諸生派の人たちの死を悼む石碑で「慷慨淋漓」の文字は松平容保の書[2]。碑文は南摩綱紀が作成し、松平雪江が清書したもの[2]1945年水戸空襲で破損して台座と、予めとられていた拓本が残った[2]。2015年に水戸市指定文化財に指定[2]

交通アクセス

東日本旅客鉄道常磐線水郡線水戸駅から関東鉄道バスで大工町バス停留所を下車、すぐ

脚注

  1. ^ 水戸商工会議所 郷土いいとこ再発見
  2. ^ a b c d e 幕末の諸生派悼む 怒りや悲しみ刻んだ碑 文化財に”. 茨城新聞 (2015年2月12日). 2023年11月13日閲覧。



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