たしろ‐さんき【田代三喜】
田代三喜
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田代 三喜(たしろ さんき、寛正6年4月8日(1465年5月3日[1]) - 天文13年4月15日(1544年5月6日))は、室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。
- ^ 「永仙院過去帳」による。「道三家譜」によると、天文6年2月19日(1537年4月9日)に73歳で没したとある。」
- ^ 宮本義己 著「曲直瀬道三の「当流医学」相伝」、二木謙一 編 『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。
- ^ 三喜が日本に持ち帰った李朱医学とは便宜的造語で、「当流医学」が実情に則した実際の学派名である[2]。この当流医学は弟子の道三によって広められていく。
- ^ a b c 『古河市史 通史編』、1988年、201頁。
- ^ a b c d 宮本義己「「当流医学」源流考-導道・三喜・三帰論の再検討-」『史潮』59号、2006年。
- ^ 『三喜備考』によると以上の通りであるが、史料上に現れる三喜の実像は多少異なる。永正6年に兼載を治療した人物は正しくは「江春庵」とあるが、この「江春庵」は三喜とは別人である。三喜を江春庵と見なせる史料も存在するが、これは「江春庵(場所)にいる三喜」と解釈すべきとされる[5]。
- ^ 当流医学を広く始めた名医・曲直瀬道三の師として知られるが、道三の師医とされる人物には二つの名前が登場する。すなわち当流医術の相伝書に署名のある「範翁導道」と、『多聞院日記』や道三に手によるとされる[5]「江春之系図」にある「田代三喜」である。この二人については、寛文3年(1663年)に黒川道祐が「本朝医考」で同一人物としている。一方でほぼ同時代の寛文12年(1672年)に記された「涙墨紙」の序文では、三喜は導道の高弟であり、共に渡明したとしている。また内閣文庫本「診脈口伝集」や「今大路家記鈔」でも別人としている。『三喜備考』以降は服部甫菴の説が支配的になり、三喜と導道は同一人物とみなされている。三喜の伝を再考した宮本義己も三喜と導道は同一人物との見解を示している[5]。いずれにしても「三喜」と「導道」を明らかに同一人物とした一次史料は存在していない。
- 1 田代三喜とは
- 2 田代三喜の概要
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