生田目修とは? わかりやすく解説

生田目修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/19 01:00 UTC 版)

生田目 修
当時航空幕僚長だった生田目修(米国アンドルーズ空軍基地、1981年)
生誕 1924年8月24日
日本 茨城県
死没 (1999-06-20) 1999年6月20日(74歳没)
日本 茨城県 日立市
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
航空自衛隊
軍歴 1945 - 1945(日本陸軍)
1951 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1983(空自)
最終階級 陸軍少尉(日本陸軍)
航空幕僚長たる空将(空自)
除隊後 伊藤忠エレクトロニクス顧問
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生田目 修(なまため おさむ[1]1924年大正13年8月24日 - 1999年平成11年)6月20日)は、日本陸軍軍人及び航空自衛官。第16代航空幕僚長

略歴

陸軍航空士官学校卒業後は岐阜基地で実用機の訓練中に終戦を迎える[2]

戦後は郷里の茨城日立に帰り農協に勤めるが、警察予備隊の旧軍出身者第一陣として1951年(昭和26年)6月に入隊[2]。入隊後は普通科連隊の中隊長等を務めるが、1954年(昭和29年)9月、航空自衛隊創設と同時に転官[2]浜松パイロットのリフレッシュ訓練を受けるが健康上の理由で要撃管制要員へ転換[2]

1955年(昭和30年)に要撃管制の米国留学第1期生として米国で訓練を受ける[2]。その後の勤務は航空幕僚監部航空総隊等で、作戦・運用と防衛一筋のエリートコースをたどり、3次防4次防の策定、さらに空幕防衛部長として「防衛計画の大綱」の策定に携わった[3]

空幕長就任後も日米共同訓練の推進やF-15部隊の新編などに取り組み、56中業の策定にも尽力した[4]。なお、要撃管制官出身としては初めての航空幕僚長であった。

年譜

栄典

脚注

  1. ^ a b 死亡記事(1999年6月22日付 朝日新聞朝刊東京版31面)
  2. ^ a b c d e f 航空情報(1979年4月号「人物スポットライト」 ,p144-145)
  3. ^ 朝雲新聞(昭和56年2月26日)「この人と10分間」
  4. ^ 朝雲新聞(昭和58年4月14日)「海空トップ交代」
  5. ^ 『官報』号外第208号(平成6年11月4日)
  6. ^ 「94年秋の叙勲 勲三等以上および在外邦人、外国人の受章者」『読売新聞』1994年11月3日朝刊
  7. ^ 『官報』本紙第2670号(平成11年7月19日)
先代
山田良市
航空幕僚長
第16代:1981年 - 1983年
次代
森繁弘
先代
伊中四郎
航空幕僚副長
第18代:1979年- 1981年
次代
松井泰夫




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