王子誕生とリッチオ殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:04 UTC 版)
「メアリー (スコットランド女王)」の記事における「王子誕生とリッチオ殺害事件」の解説
1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こした。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させた。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。 1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっているとき、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きた。メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産した。リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリーは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるよう迫った。しかし、ジェームズが大きくなっても、ダヴィデ(デイヴィッド)の子を意味する「ソロモン」と呼ぶ者がいた。 子どもは生まれたが、しかしダーンリー卿との仲は冷え切ったままだった。当時のスペイン大使によれば、メアリーにダーンリー卿暗殺を提案した者さえもいたが、メアリーは受け入れなかったという。
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