猿山合戦
猿山合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/23 01:49 UTC 版)
大永3年(1523年)8月、結城政朝は下野国の宇都宮領に侵攻してきた。宇都宮忠綱は出陣し、宇都宮猿山で結城勢と対峙し、ここで戦うが敗北する。忠綱は宇都宮城に撤退するが、宇都宮城は芳賀高経の策謀により、芳賀興綱、芳賀高経、芳賀高孝、塩谷孝綱、笠間氏らが占拠し、忠綱は入城できなかった。忠綱はやむを得ず、壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せた)。この合戦で結城政朝は下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪い取ることに成功している。一方宇都宮氏は一族の今泉盛高が討死した。 また、『今宮祭祀禄』に大永3年(1523年)に祭礼の頭人である玉生右京助が勝山で討死している。勝山城を巡って興綱を擁立した家臣らと忠綱派による武力衝突があったことを示唆しており、また、翌年にも「乱ゆえ、御頭御座なく候」という記述があり、戦乱中だったことがわかる。
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猿山合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:03 UTC 版)
「大永の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「猿山合戦」の解説
芳賀高経は結城政朝を頼り、結城城を訪れた。政朝側からすれば、宇都宮氏から旧領の奪還を狙う好機であり、芳賀氏らに協力することを口実に大永3年(1523年)8月に宇都宮領へ侵攻、宇都宮氏の軍勢と猿山で対峙し、合戦となった(猿山合戦)。 合戦は結城氏が勝利し、宇都宮忠綱は宇都宮城から追放された。結城政朝や芳賀高経ら反忠綱派の家臣団は成綱の末子である宇都宮興綱を宇都宮氏19代当主へと擁立した。興綱はまだ幼かったが、父が忠綱と同じ宇都宮成綱で、母は上杉顕実(古河公方・足利氏の一族で山内上杉氏12代当主にして関東管領を務めた)の娘であり、血筋的な側面でも宇都宮氏の当主に相応しかったことが擁立の理由とされる。 忠綱が追放された出来事は佐竹義篤ら北関東の諸勢力でも注目されており、『東州雑記』にも「大永三年宇都宮乱、忠綱出城」と記録されていた。
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