牧野貞成
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牧野 貞成(まきの さだなり)は、戦国時代の武将。東三河地方の国人領主。牛久保城主第2代、通称は民部丞・右馬允・新二郎。牧野成勝の子(実は牧野成種(出羽守)の子[2]、成勝の養子となる)。
- ^ 『新訂 寛政重修諸家譜 第6』(巻第三百六十四・牧野)266頁。
- ^ 『藩翰譜』227頁所載、「牧野」系図。
- ^ 『牧野家譜 上』の「御家譜」(越後長岡藩主の歴代記、原書の写本にあたる古和本は長岡市中央図書館に所蔵)および『牧野家系図』(越後長岡藩主の系図、伝来の古系図類を牧野家の依頼により鈴木眞年が明治9年(1876年)に華族会館提出用にまとめ新訂したもの、長岡市中央図書館所蔵)
- ^ 「御家譜」によると永正3年(1506年)に5歳(満4歳)にして今橋城の落城・脱出を経験したという。
- ^ 『新編 豊川市史1』において、八幡八幡宮(豊川市)で新発見史料とされる、『永正十七年八幡宮造営奉加帳』に「牧野右馬允貞成」とその一家・都合7名の氏名記載を検出(418-419頁)、この史料には永正17年(1520年)に「五十匹(=銭500文)、牧野右馬允貞成(花押)」と記されているが、その居所は不記載であるとし、また同市史は貞成を天文末期の右馬允の親にあたると推定している(420頁)。
- ^ 今川氏のこの出兵の経緯は『大名領国を歩く』所収、所理喜夫「戦国大名今川氏の領国支配機構」に詳しい。また、今川方攻略軍の将であった天野景泰は吉田城攻略後も三州御陣番として同城にそのまま在駐し、翌16年の田原城戸田氏攻略の際にも在城していたと推定されている(『豊橋市史 第1巻』第2節、392頁「今川氏支配の吉田」)。
- ^ この時の岡崎勢(松平軍)について「御家譜」は松平好景・松平康定とする。
- ^ 貞成追放に関しては、『新編岡崎市史 2』第3章 戦国戦乱期の岡崎 「弘治合戦」による。
- ^ 『八名郡誌』「管轄沿革其六・戦国の土豪」(pp330 - 333)によると「月江常心大禅門・牧野新次郎・右馬允貞成」の名で没日「永禄五年八月二十八日」の位牌の存在と、貞成がこの寺の開基であることが指摘されている。
- ^ 「越後長岡と東三河」 第98-99話「牧野氏と西尾」。
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