潘淑
(潘皇后_(孫権) から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 07:37 UTC 版)
潘 淑[1][2](はん しゅく)は、三国時代の呉の大帝孫権の皇后。揚州会稽郡句章県(現在の浙江省寧波市江北区)の出身。父母の名は不明。呉の第2代皇帝である孫亮の母。
注釈
- ^ 懐妊した際は誰かが龍の頭を自分に授けて、彼女自身がそれを受け取るという夢を見たという。こうして生まれたのが孫亮であった。
- ^ 『建康実録』に「赤烏七年 生于内殿」とある。孫権の諸子女の中で生年と誕生地を明確な形で伝えた記録は、孫亮のみである。
- ^ 陳正・陳象は晋の献公が太子申生を廃し、寵妃である驪姫の子の奚斉を太子とした故事を引いた上奏文を提出して諫言した。孫権は激怒し、陳正・陳象ら一族を処刑した。
- ^ 孫権は当初、妃妾を皇后とする意志がなかったといわれ、先任の皇太子の母である王夫人を含む妃が皇后に昇格したことについても拒否の姿勢を見せた[3]。潘淑は生前における唯一皇后に就く妃である。
- ^ 『三国志』には皇后暗殺の理由には触れていなかった。他の本にはいろいろな説がある。『建康実録』では「既病 宮人侍疾 不堪勞苦 伺其昏卧 共縊殺之(宮人たちは病人の世話をする苦労に耐えられない。そこで皇后が意識不明になった時に彼女を殺害した)」という記述がある。『資治通鑑』では「左右不勝其虐 伺其昏睡縊殺之(宮人は皇后から虐待を受けたため彼女を殺害した)」と記される。しかし、南宋の歴史家である胡三省は同じ本の注でこれが原文を曲解したことと指摘する。また、胡三省は、権力者が政治的理由に基づいて主導した暗殺事件だと主張した。皇后が幼帝の後見として必ず摂政を行い、その結果として権臣の利益が損なわれるのが予想され、それを防ぐために権臣が暗殺を画策した。
- ^ 大喬、小喬、孫夫人、甘皇后、鄧夫人(孫和の寵姫)と共に三国時代の美人として挙げられている。
- ^ 姉婿になった譚紹は孫亮の即位後に騎都尉に任用られ兵権を与えた。太平3年(258年)孫亮が廃位させられ、譚紹は一族もろとも故郷の廬陵郡に左遷された。
出典
[続きの解説]
- >> 「潘淑」を含む用語の索引
- 潘淑のページへのリンク