汲沢
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汲沢(ぐみざわ)は、神奈川県横浜市戸塚区の町名。現行行政地名は汲沢一丁目から汲沢八丁目及び汲沢町。住居表示は汲沢一丁目から汲沢八丁目が実施済み区域、汲沢町が未実施区域。横浜市戸塚区の南西部に位置し、町域南東部で国道1号、北部で神奈川県道22号横浜伊勢原線(長後街道)に接する。
注釈
- ^ 「神奈川県皇国地誌 村誌 汲沢雑史稿第2報」東生老人クラブ雑史部編 1966年 本書のあとがき(pp40-41)によると、汲沢周辺10ヵ村(汲沢、深谷、原宿、金井、田谷、小雀、長尾台、東俣野、上俣野、山谷新田)についての皇国地誌の原稿は、関東大震災による東京帝国大学図書館火災等で失われたと考えられていたものの、昭和3年(1928年)、原宿にあった旧大正村村役場で屋外に打ち捨てられようとされていたところを発見され、石井八郎氏の所蔵となった後、長らく存在が知られなかったが、昭和40年(1965年)、当地の老人クラブにより再発見され、鎌倉郡役所の公用紙に書かれていることから同役所が保管していた原本であると確認されたという。
- ^ 『新編相模国風土記稿第五巻』pp130-131 1998年 雄山閣 宝寿院に関する記述は以下の通り。宝寿院 汲沢山願行寺と号す 古義真言宗手広村青蓮寺末、本尊不動(長一尺五寸願行上人作)を安ず、中興開山を長順(天文二十三年十一月二日寂す)と云ふ、△天神社 △観音堂 十一面観音を安ず 〇大乗院 当山修験(藤沢宿不動院配下)本尊不動(願行作長一尺八寸)を置く、〇阿弥陀堂 宝寿院持下同、〇観音堂 千手観音を置く
- ^ 『汲沢山宝寿院願行寺由来』pp3-5 茂木尭秀編 1981年 宝寿院創建についての『汲沢往来』からの引用は以下の通り。汲沢山宝寿院願行寺ハ昔宝寿坊と申候て今の寺の上の山に屋敷跡と古井戸有り元は庵室なり桂順と申僧、何方より天正年中に来り住持となり壱ケ寺の寺に致度願候ゆへ織部世話致シ青蓮寺末寺となり本尊無故織部本尊丈八寸許り願行作不動を納め其礼二二代織部弟武州保土ヶ谷岩間町羯魔山密蔵院円福寺四代住持権大僧都長順の位牌を開山として自分ハ中興開山と成織部一番に旦方と成兵乱の時ハ向地迄持行シ不動なり
- ^ 「鎌倉郡札所 三浦郡札所 詠歌集 付金沢札所」 石井光太郎 三浦古文化第7号 pp77-83 1970年 宝寿院に関する記述は以下の通り。「定」は「宝」の誤りと考えられる。第廿七番 ぐみ沢 蓮華寺 座像/定しゆいん本とう/十一面 五寸七分 運慶作/廿八番え十八丁/有かたや大ひの池水汲人の/心の花の開く蓮華寺
- ^ 『柳田国男全集18』「踊の今と昔」pp391-431中のp423 筑摩書房 1990年 柳田国男は、「人類学雑誌」へ明治44年(1911年)4月から8月に発表された本論文の「踊りの目的」との章(pp418-423)において、踊りという行為の持つ意味を以下のように説明している。「元来すべての踊りは神仏を歓ばしめて所願を請求する手段なれど、踊る者自身がすでに面白く楽しく、迷界の長者を感動せしむるに先立ちて本人等夙(つと)に夢中になるがごとき形跡あるをもって、一見各自の遊興のためにこれを企つる者のごとく思わるるも、その決してしからざることは前述の諸国の踊りが過半神社仏閣の祭典に関する行事なるを見ても知るべきなり。しこうして社寺とは関係なくあるいは郊野においてあるいは道の辻において勝手に踊るかと思わるる盆踊りの類といえども、また眼に見えぬ鬼神の拝所も祭壇もなきものを禱祀(とうし)する手段なり(後略)。」そのうえで踊りに込められた「所願」、すなわち神仏に願う内容として、雨乞い、虫送り、牛馬の安全、疫病除けを挙げている。このうち雨乞いと虫送りに関しては、「昔は洪水よりも旱魃の方が怖ろしかりしなりけり。田植草取りの作業終わり稲の花咲くを待つ間、農人の最も未定不安を感ずるは雨量の問題なりけり。これに次ては虫害を怖れたりき。この二憂は通年ほとんど絶ゆることなく、その防御をもって人力以上なりと信ぜし昔の人にとりてはまことに迷信の種なりしなり。」と述べる。疫病除けに関しては、「昔は流行病が発生すれば石炭酸の代りに熱心に踊」ったとし、「「掛け踊り」という甲の村の者踊りの群を作りて隣の乙村へ踊り掛くれば、乙村にても決して黙しておらず、大急ぎに踊りを始めて甲村へ踊りを掛け返しまたは丙村へ踊り掛くるなり。これ虫送りの場合と同じく、悪しき神が隣村の踊りの面白さに絆(ほだ)されてその境を出で自村内へ来てうろうろしておられては大変なるがためなり。」と、踊りのあり様を具体的に紹介したのちさらに、「農家といえども甚だしく密集しかつ集団大なれば疫病を怖るるの度都会に近かりしかと思わるるなり。さてその後注意するに全国にわたりて村の小字に舞台または踊場などいう地名多し。もしその地形が概して村の境または民居の外辺などの交通の衝に当るものならばすなわち自分の説を証するものなり。」と、「踊場」という地名と疫病除けの踊りとの関連についての推論を述べているが、汲沢、中田、深谷の「踊場」はまさに、柳田のいうところの「村の境または民居の外辺などの交通の衝」にあたっている。
- ^ 『1876ボンジュールかながわ フランス人の見た明治初期の神奈川 』(エミール・ギメ著 青木啓輔訳 1977年)のp170には以下のように訳されている。道端では大木が奇妙な姿勢でその体をねじまげている。ときとして道が登り坂になると、私たちは歩いていく。しかし、下り坂になると、車夫たちは目の回るような速さでまた出発する。こうして私たちは戸塚に着く。これは三キロメートルの長い街である。
- ^ 『ジャポン1867年』(ルドヴィク・ド・ボーヴォワール著 綾部友治郎訳 1985年)のpp121-122には以下のように訳されている。こちらはこの見事な東海道をたどって、西へ向かって旅を続けるが、道は次第に人通りがなくなる。(中略)そこを過ぎると、眺めの素晴らしい場所に出た。百年を経た杉のトンネルの下を通り、やがて山となるひと続きの丘をたどると、目の前には緑の地平線がひろがる。断崖や滝、処女林と水田、シルエットを見せる古い寺院、緑をいただく赤みがかった巨石、さらには遥か彼方に紺青の海の水平線を望む。
出典
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- ^ 『戸塚高等学校建設由来記』p40 高野重雄 1978年
- ^ a b c 「東海道の裏道「岡津道」」有馬純律 とみづか第37号 pp6-7 2011年3月
- ^ 「岡津郷とその領主について」大橋俊雄 とみづか第3号 pp7-14 1977年3月
- ^ 「戦国期の岡津領主太田大膳亮について」大橋俊雄 とみづか15号 pp4-7 1989年
- ^ a b c 「戸塚宿開設に尽力した彦坂元正」豊田二郎 とみづか第41号 pp16-20 2015年6月
- ^ 鎌倉時代から江戸時代までの泉区
- ^ 『戸塚の歴史』大橋俊雄 p145 文華堂書店 1986年
- ^ 同上p155
- ^ 国会図書館デジタルコレクション『徳川実紀.第1編 東照宮御実紀 巻九(慶長九年七月−十二月)/113』コマ番号66/522右下「こと」は合字で表記。
- ^ 神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌』pp51-57 1991年
- ^ 『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』平井聖ほか編修 p308 新人物往来社 1980年
- ^ 新編相模国風土記稿 岡津村 彦坂小刑部元正陣屋蹟.
- ^ 『戸塚の歴史』大橋俊雄 p159 文華堂書店 1986年
- ^ 『戸塚の歴史』大橋俊雄 p159-160 文華堂書店 1986年
- ^ 同上
- ^ 『神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌』pp51-57 1991年 原文のカタカナは平仮名に改め、濁点を付したうえ、適宜句読点を入れた。
- ^ 東海道の裏道「岡津道」横浜市泉区
- ^ 『戸塚区史 区制五十周年記念』pp62-68 戸塚区史刊行委員会 1991年
- ^ 『東海道名所記/東海道分間絵図』富士昭雄校訂 国書刊行会 2002年 pp222-225 解題pp411-415
- ^ 国会図書館デジタルコレクション『東海道分間絵図. 第1帖』コマ番号13/23
- ^ 新編相模国風土記稿 戸塚宿 坂.
- ^ 『戸塚区郷土誌』p408 戸塚区郷土誌編纂委員会 1968年に出典として『柳多留』、『柳樽拾遺』とのみ挙げられている。なお本書には旧戸塚区に関わる古文漢文を含む本邦の文芸作品が作品が抜粋、掲載されている。
- ^ 「東海道中百物語ー戸塚宿ー」神奈川県2015年
- ^ 『戸塚郷土誌』pp271-276 中島富之助 1934年
- ^ 『戸塚区郷土誌』pp211-213 戸塚区郷土誌編纂委員会 1968年
- ^ 早稲田大学古典籍総合データベース「江の島まうで浜のさゞ波/平亭銀鶏 撰 文晁ほか画」 天保10年の再版があるが、このページでは、出版年不明となっている。
- ^ 『相模国紀行文集 神奈川県郷土資料集成 第7輯』神奈川県図書館協会郷土資料委員会編 1972年 本文の翻刻のみ収録。挿絵中のテクストの翻刻はない。解題がある。
- ^ 『道中記集成 第25巻』今井金吾監修 大空社 1996年 天保4年版のファクシミリ。解題がある。
- ^ 早稲田大学古典籍総合データベース「江の島まうで浜のさゞ波/平亭銀鶏 撰 文晁ほか画」中、戸塚の挿絵原文には改行はないが、字数、対句表現から漢詩であると判断し、改行を入れた。 挿絵内のテクストの翻刻は公刊されていない。翻刻にあたっては、一部についてある機関にご助力いただいた。正式なオーソライズをいただいたものではない。
- ^ 『太田南畝全集第八巻』pp76-81 濱田義一郎ほか編 岩波書店 1986年
- ^ 『東海道分間延絵図 第2巻〔本篇〕 保土ヶ谷・戸塚・藤沢』および同『解説篇』pp24-28 東京美術 1978年
- ^ 東京国立博物館 東海道分間延絵図_第1巻 画像番号C0026235
- ^ 『小栗判官一代記-附地獄変相十王図絵解き』p9 解題p3 藤沢市西俣野史跡保存会 1985年
- ^ 『藤沢の民話(第三集)』pp84-85 藤沢市教育文化研究所編 1978年
- ^ 『相模国紀行文集』神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会 pp128-129 1969年 「処ところ」は「処」にくの字点。「楳軒」は「梅軒」に同じ。
- ^ 『徳川実紀』(東照宮御実記巻八)慶長九年二月四日
- ^ 「とみづか第30号 東海道戸塚宿400年Q&A」p6 2004年6月
- ^ 『横浜市文化財調査報告書 第19輯 神奈川県鎌倉郡中田村小山家文書目録』p21 横浜市文化財総合調査会編 1989年
- ^ 新編相模国風土記稿 湘中記行.
- ^ 『戸塚区郷土誌』p374 戸塚区郷土誌編纂委員会 1968年
- ^ 神奈川県立歴史博物館「神奈川の街道」『東海道五十三次 六 戸塚』
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 『東海道五十三対 戸塚』
- ^ 『東海道と戸塚宿 戸塚宿400周年記念企画展』横浜市歴史博物館編 pp5-7 2004年
- ^ 文化遺産オンライン『東海名所改正道中記 藤沢迄二里 戸塚 山道より不二の眺望』
- ^ 『お札博士の観た東海道』英語部p14 フレデリック・スター著 石井真峰訳 大日本図書 1916年 なお同書日本語部p32には以下のように訳されている。「それから二重に坂のある丘を徒(かち)で登った。車夫にはとても重くてひけなかった。此の辺の松樹は殊更青々としていた。」
- ^ "Promenades japonaises" Emile Guimet pp180-181 G.Charpentier 1878年
- ^ “Voyage autour du monde: Australie, Java, Siam, Canton, Pekin, Yeddo, San.Francisco” Le comte de Beauvoir pp590-591 Plon 1875
- ^ 「鎌倉郡大正村・一号国道ダブルウェイの誕生」久野淳一 郷土神奈川49号 pp1-17 2011年3月 本文中に引用した文学者の文は本論文から孫引きである。
- ^ 特集4落人-清元協会ホームページ
- ^ 東京都立図書館TOKYOアーカイブ「道行道行旅路の花聟」
- ^ 『汲沢小史』石井操編 p31 1978年
- ^ 『地名の語源 (角川小辞典 13)』鏡味完二 鏡味明克 p152 角川書店 1977年
- ^ 『風の事典』真木太一ほか編 p6 丸善出版 2011年
- ^ 『神奈川県方言辞典』日野資純 斉藤義七郎編 p174 神奈川県教育委員会 1965年
- ^ TSUTAYA MOVIE CHANNEL 映画 鈴木先生 (2012)予告編
- ^ 白海あやの 公式ブログ/AKB48神奈川県立桜陽高校
- ^ 視覚探偵 日暮旅人 ロケ地情報 - 全国ロケ地ガイド
- ^ 「終戦当時の泉区~軍需工場・桑原部隊・深谷通信隊」翠川宣子 郷土いずみ 第16号 pp44-50 2010年5月
- ^ 「深谷通信隊」石井茂 郷土いずみ第22号 pp36-42 2016年5月
- ^ a b 「東京海軍通信隊戸塚分遣隊通称深谷通信隊の沿革」翠川宣子 郷土いずみ第17号 pp17-19 2011年5月
- ^ 『病院を支えた底力 藤沢湘南台病院物語』鈴木利弥著 p51 悠飛社 2006年
- ^ 「終戦当時の泉区~軍需工場・桑原部隊・深谷通信隊」翠川宣子 郷土いずみ第16号 pp44-50 2010年5月
- ^ 『神奈川の米軍基地』神奈川県 pp50-53 1992年
- ^ 「旧深谷通信所の跡地利用」横浜市
- ^ “郵便番号簿 2020年度版” (PDF). 日本郵便. 2021年8月7日閲覧。
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