汲沢町とは? わかりやすく解説

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汲沢町

読み方:グミザワチョウ(gumizawachou)

所在 神奈川県横浜市戸塚区

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

〒245-0062  神奈川県横浜市戸塚区汲沢町

汲沢

(汲沢町 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/15 02:27 UTC 版)

汲沢(ぐみざわ)は、神奈川県横浜市戸塚区の町名。現行行政地名は汲沢一丁目から汲沢八丁目及び汲沢町。住居表示は汲沢一丁目から汲沢八丁目が実施済み区域、汲沢町が未実施区域。横浜市戸塚区の南西部に位置し、町域南東部で国道1号、北部で神奈川県道22号横浜伊勢原線長後街道)に接する。


注釈

  1. ^ 「神奈川県皇国地誌 村誌 汲沢雑史稿第2報」東生老人クラブ雑史部編 1966年 本書のあとがき(pp40-41)によると、汲沢周辺10ヵ村(汲沢、深谷、原宿、金井、田谷、小雀、長尾台、東俣野、上俣野、山谷新田)についての皇国地誌の原稿は、関東大震災による東京帝国大学図書館火災等で失われたと考えられていたものの、昭和3年(1928年)、原宿にあった旧大正村村役場で屋外に打ち捨てられようとされていたところを発見され、石井八郎氏の所蔵となった後、長らく存在が知られなかったが、昭和40年(1965年)、当地の老人クラブにより再発見され、鎌倉郡役所の公用紙に書かれていることから同役所が保管していた原本であると確認されたという。
  2. ^ 新編相模国風土記稿第五巻』pp130-131 1998年 雄山閣 宝寿院に関する記述は以下の通り。
    宝寿院 汲沢山願行寺と号す 古義真言宗手広村青蓮寺末、本尊不動(長一尺五寸願行上人作)を安ず、中興開山を長順(天文二十三年十一月二日寂す)と云ふ、△天神社 △観音堂 十一面観音を安ず 〇大乗院 当山修験(藤沢宿不動院配下)本尊不動(願行作長一尺八寸)を置く、〇阿弥陀堂 宝寿院持下同、〇観音堂 千手観音を置く
  3. ^ 『汲沢山宝寿院願行寺由来』pp3-5 茂木尭秀編 1981年 宝寿院創建についての『汲沢往来』からの引用は以下の通り。
    汲沢山宝寿院願行寺ハ昔宝寿坊と申候て今の寺の上の山に屋敷跡と古井戸有り元は庵室なり桂順と申僧、何方より天正年中に来り住持となり壱ケ寺の寺に致度願候ゆへ織部世話致シ青蓮寺末寺となり本尊無故織部本尊丈八寸許り願行作不動を納め其礼二二代織部弟武州保土ヶ谷岩間町羯魔山密蔵院円福寺四代住持権大僧都長順の位牌を開山として自分ハ中興開山と成織部一番に旦方と成兵乱の時ハ向地迄持行シ不動なり
  4. ^ 「鎌倉郡札所 三浦郡札所 詠歌集 付金沢札所」 石井光太郎 三浦古文化第7号 pp77-83 1970年 宝寿院に関する記述は以下の通り。「定」は「宝」の誤りと考えられる。
    第廿七番 ぐみ沢 蓮華寺 座像/定しゆいん本とう/十一面 五寸七分 運慶作/廿八番え十八丁/有かたや大ひの池水汲人の/心の花の開く蓮華寺
  5. ^ 『柳田国男全集18』「踊の今と昔」pp391-431中のp423 筑摩書房 1990年 柳田国男は、「人類学雑誌」へ明治44年(1911年)4月から8月に発表された本論文の「踊りの目的」との章(pp418-423)において、踊りという行為の持つ意味を以下のように説明している。「元来すべての踊りは神仏を歓ばしめて所願を請求する手段なれど、踊る者自身がすでに面白く楽しく、迷界の長者を感動せしむるに先立ちて本人等夙(つと)に夢中になるがごとき形跡あるをもって、一見各自の遊興のためにこれを企つる者のごとく思わるるも、その決してしからざることは前述の諸国の踊りが過半神社仏閣の祭典に関する行事なるを見ても知るべきなり。しこうして社寺とは関係なくあるいは郊野においてあるいは道の辻において勝手に踊るかと思わるる盆踊りの類といえども、また眼に見えぬ鬼神の拝所も祭壇もなきものを禱祀(とうし)する手段なり(後略)。」そのうえで踊りに込められた「所願」、すなわち神仏に願う内容として、雨乞い、虫送り、牛馬の安全、疫病除けを挙げている。このうち雨乞いと虫送りに関しては、「昔は洪水よりも旱魃の方が怖ろしかりしなりけり。田植草取りの作業終わり稲の花咲くを待つ間、農人の最も未定不安を感ずるは雨量の問題なりけり。これに次ては虫害を怖れたりき。この二憂は通年ほとんど絶ゆることなく、その防御をもって人力以上なりと信ぜし昔の人にとりてはまことに迷信の種なりしなり。」と述べる。疫病除けに関しては、「昔は流行病が発生すれば石炭酸の代りに熱心に踊」ったとし、「「掛け踊り」という甲の村の者踊りの群を作りて隣の乙村へ踊り掛くれば、乙村にても決して黙しておらず、大急ぎに踊りを始めて甲村へ踊りを掛け返しまたは丙村へ踊り掛くるなり。これ虫送りの場合と同じく、悪しき神が隣村の踊りの面白さに絆(ほだ)されてその境を出で自村内へ来てうろうろしておられては大変なるがためなり。」と、踊りのあり様を具体的に紹介したのちさらに、「農家といえども甚だしく密集しかつ集団大なれば疫病を怖るるの度都会に近かりしかと思わるるなり。さてその後注意するに全国にわたりて村の小字に舞台または踊場などいう地名多し。もしその地形が概して村の境または民居の外辺などの交通の衝に当るものならばすなわち自分の説を証するものなり。」と、「踊場」という地名と疫病除けの踊りとの関連についての推論を述べているが、汲沢、中田、深谷の「踊場」はまさに、柳田のいうところの「村の境または民居の外辺などの交通の衝」にあたっている。
  6. ^ 『1876ボンジュールかながわ フランス人の見た明治初期の神奈川 』(エミール・ギメ著 青木啓輔訳 1977年)のp170には以下のように訳されている。
    道端では大木が奇妙な姿勢でその体をねじまげている。ときとして道が登り坂になると、私たちは歩いていく。しかし、下り坂になると、車夫たちは目の回るような速さでまた出発する。こうして私たちは戸塚に着く。これは三キロメートルの長い街である。
  7. ^ 『ジャポン1867年』(ルドヴィク・ド・ボーヴォワール著 綾部友治郎訳 1985年)のpp121-122には以下のように訳されている。
    こちらはこの見事な東海道をたどって、西へ向かって旅を続けるが、道は次第に人通りがなくなる。(中略)そこを過ぎると、眺めの素晴らしい場所に出た。百年を経た杉のトンネルの下を通り、やがて山となるひと続きの丘をたどると、目の前には緑の地平線がひろがる。断崖や滝、処女林と水田、シルエットを見せる古い寺院、緑をいただく赤みがかった巨石、さらには遥か彼方に紺青の海の水平線を望む。

出典

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    小林光一郎「「踊り歌う猫の話」における「踊る猫」のイメージ -錦絵に描かれた踊る猫-」『年報 非文字資料研究』第7号、神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター、2011年3月、305-325頁、CRID 1050282677544958848hdl:10487/11063ISSN 1883-9169 
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  191. ^ 早稲田大学古典籍総合データベース「江の島まうで浜のさゞ波/平亭銀鶏 撰 文晁ほか画」中、戸塚の挿絵原文には改行はないが、字数、対句表現から漢詩であると判断し、改行を入れた。 挿絵内のテクストの翻刻は公刊されていない。翻刻にあたっては、一部についてある機関にご助力いただいた。正式なオーソライズをいただいたものではない。
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