江戸四宿
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江戸四宿(えどししゅく)、または単に四宿は、江戸時代に五街道の各々について江戸・日本橋(北緯35度41分2.5秒 東経139度46分28秒 / 北緯35.684028度 東経139.77444度)に最も近い宿場町の総称で、五街道の起点である日本橋から2里(約8 km)以内のところにあった[1]。江戸と地方を結ぶ各街道の最初の宿場町であり、江戸の出入り口として重要な役割を担い[1]、人・物資・情報・文化の集散地として機能し、周辺地域と異なった街並みや風格をもっていた[2]。
- ^ a b ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 144.
- ^ 末吉恵, 菊地俊夫「旧宿場町の歴史資源を活かしたまちづくりの構造とその地域性 : 品川宿と千住宿の比較研究」『観光科学研究』第2号、首都大学東京 大学院都市環境科学研究科地理環境科学専攻 観光科学専修、2009年3月、65-84頁、CRID 1050845763385932800、hdl:10748/4080、ISSN 18824498。
江戸四宿
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江戸四宿(板橋・品川・新宿・千住)は江戸期、各宿場町から始まり遊所として発展し幾度の取り締まりを受けて明治初期に遊廓となる。昭和戦時中に廃絶した板橋を除き、1958年(昭和33年)、売春防止法施行まで遊廓として営業していた。
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