民連内の対立激化と活動停止
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「民主主義擁護連絡協議会」の記事における「民連内の対立激化と活動停止」の解説
1958年1月の那覇市長選挙以降、急速に組織が拡大され、3月の立法院選挙でも一定の成果を納めた民連であるが、兼次那覇市長の変節と社大党から離脱した人々が社会党を結成して後に民連から離脱したことで、活動に陰りが見え始めた。 兼次那覇市長は就任後初の記者会見で「市長として何から何まで民連の支持は受けない」と表明した。更に3月の市議会で市政運営にあたって「超党派的な態度で臨みたい」と答弁、徐々に民連とは距離を置くようになり、アメリカ軍や親米勢力へすり寄る態度を示した。そして兼次は1958年2月16日に社大党を脱党して民連に参加した人々を中心に社会党を結成したが、民連への正式加盟はしなかった。民連内部ではこうした兼次の変節への対処について人民党と社会党との間で大きな食い違いが生じるようになった。この対立は、9月22日に行われた兼次市長の市政報告演説会が市長の変節に抗議する聴衆からのヤジによって大混乱となったことで激化し、1959年には民連としての組織的活動が出来ない状況に陥った。1960年4月に第4回総会が行われたが、その後組織的活動は停止した。
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