母成峠の戦い
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母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい、慶応4年8月21日(グレゴリオ暦1868年10月6日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。会津藩境の母成峠[1](現・福島県郡山市・猪苗代町)を守る旧幕府軍800が新政府軍7,000と戦うが、兵力および兵器の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となった。二本松城陥落による追滅戦。二本松藩兵最後の抵抗。
- ^ 北緯37度35分43秒 東経140度14分37秒 / 北緯37.59528度 東経140.24361度
- ^ 大山柏著『戊辰役戦史 下巻』時事通信社、1968年、22頁。
- ^ 会津藩は新政府軍に宿営地を与えないために石筵村を焼き払っていたが、この結果、反感を抱く地元民が新政府軍を旧幕府軍の台場へ的確に誘導させることに繋がった。『会津落城』 87頁、93-94頁
- ^ 「ここが破れれば、会津の滅亡旦夕にあり。いま一奮戦せよ」。『会津落城』 94頁
- ^ 大鳥の周囲には歩兵3 - 4人と付人1人しかいなかった。『会津落城』 95頁
- ^ 「敵は明朝には必ず猪苗代まで押し寄せるだろう。諸口の兵隊を残らず猪苗代に回すべきである。さもなくば、明日中にも若松まで押し寄せるだろう」。『会津落城』 94頁
- ^ このころ、榎本武揚率いる旧幕府軍の艦隊が房総半島沖で遭難していた。『会津落城』 112-113頁
- ^ この時、すでに新政府軍が容保の背後数百歩に迫っており、甲賀町口郭門前にて捧げ筒をし主君を迎えた白虎隊(士中一番隊)に銃弾が撃ち込まれた。 『会津落城』 114頁
- ^ 城下の住民は砲声を耳にしながらも城の軍事局を信じ、敵進攻を告げる早鐘が乱打されるまで避難行動をとらなかったことが被害を拡大させた。 『会津落城』 118頁
- ^ 会津藩に進攻するにあたり、新政府軍は周辺の村々から大量の人夫と馬と軍資金を徴発したが、人々は会津藩に知らせずに両手をあげて歓迎し、これに応じた。また、商人たちは征服者を「官軍さま」と呼び、会津兵のことは「会賊」と呼び捨てにした。『会津落城』 77頁
- 1 母成峠の戦いとは
- 2 母成峠の戦いの概要
- 3 影響
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